STORE
VHSMAG · VHSMIX vol.31 by YUNGJINNN

POPULAR

AIMU YAMAZUKI / 山附明夢

2023.12.06

5年後

2023.12.01

EDO IN JAPAN

2023.12.04

YARDSALE - YS 3

2023.12.02

SATOSHI SUZUKI 2023

2023.12.04

4DWN

2023.12.01

CREATURE - SOTA TOMIKAWA

2023.12.01

掃除機革命

2023.12.05
  • Dickies Skateboarding

SKATE SHOP VIDEO AWARDS 2022
スケートボード通販 - PAGER TOKYO
Maite Adimatic Mid - adidas skateboarding

CLOSER ISSUE 02(翻訳記事第4弾)
──CHICO BRENES INTERVIEW

2023.01.30

  チコ・ブレネス。世界中のスケートシーンに影響を与えたEMBが輩出した才能。当時、最も人気のあったWorld Industries(以下WI)からプロに転向。'90年代初頭の最もクールで多様な人種からなるChocolateの原動力。'90年代初期から中期にかけて『Love Child』『New World Order』『Paco』『Mouse』といった名作に出演。
 それから10年以上経ち、彼の名を冠した『Give Me My Money Chico』が登場。シューズ、デッキ、アパレルのスポンサーなど、スケートシーンでさまざまな功績を残してきたが、最も注目すべきは40代に突入した現在の活動。誰もがベッドで寝ている早朝に起床し、Morning Radness、サーフィン。そしてそれからスケート。実にかなり長時間のスケート。私たちは幸運にもそれを目にすることができている。好きなことを好きでいられれば、それをいつまでも長く続けることができる。彼がその証明。

—アーロン・メザ

 

CLOSER(以下C): 「チコ復活」とよく言われると思うけど、それについてどう思ってる?

チコ・ブレネス(以下CB): 正直、今が人生で一番楽しい。今までで一番スケートを楽しめてると思う。いろいろなタイプのデッキに乗って、いろんなことに挑戦するのは楽しい。今思えば、何もかもがあって当然だとずっと勘違いしてたような気がする。スケートキャリアが始まった頃は、それが当たり前でずっと続くと思ってたんだ。Chocolate全盛の頃、オレたちはアンタッチャブルだと思ってた。でもそうじゃないんだよ…。突然、そんなチャンスはなくなるんだ。すべてが消え始める。すぐに謙虚になるね。

C: でもChocolateを離れたからこそ今があるわけだ。30年経ってキャリアの全盛期を迎えてるように見える。

CB: ありがとう。不思議なもので、オレはただスケートを楽しんでるだけで、そのことに気づいてくれる人が増えただけなんだ。いろんな変化があった。こんなにスケートに燃えてるのは久しぶりだから、それが伝わってるのかもしれない。プレッシャーを感じなくなったのも大きな理由。今は自分の意思がすべて。自分が気持ちいいと思える形で自分を追い込んでる。やりたいことをやってるんだ。

C: IGストーリーズの“Morning Radness”はどのように始まったの?

CB: ある朝、目が覚めたとき、個人的にインスピレーションを与えてくれる人たちにプロップスを送らなければならないと感じたんだ。写真を何枚か投稿してその感じが気に入ったから、毎日やるようになった。朝を迎えるのにちょうどいい方法だね。

C: あれは最高だね。ではどのようにいろんなシェイプのデッキに乗るようになったの?

CB: 2014年のケガがきっかけ。LRGの最後のビデオ『1947』の撮影中にバックサイドフリップで膝をやっちゃって。前十字靭帯、半月板と内側側副靭帯。39歳だったから、もう終わったと思った。もう復帰は無理。かなり落ち込んだね。Chocolateには嘘をついたけど。「ちょっとヒザを痛めたけど、1ヵ月くらいで治ると思う」って(笑)。

C: 「たいしたことない」って?

CB: そう、「ほんのかすり傷」って(笑)。でも本心は完全にパニック。だって2000年にも前十字靭帯をやって大変だったけど、今回はそれだけじゃなかったから。「こんな状態から復帰できるわけがない!」って感じだった。しばらくは手術を受けるつもりもなかった。だって手術しても何の意味もないだろ? 自分のキャリアは終わったと確信してたからね。どちらかというと娘のために手術をしたんだ。娘が大きくなったときに支障が出たら困るから。スケートキャリアはまったく関係なかった。それで腕のいい医者を探し始めたんだ。「49ersの主治医をよこせ! このままじゃヤバい」って感じで。幸運にもUCSFで素晴らしい医者を見つけることができた。そして手術をして、理学療法を始めた。
 それでも「もう昔のように滑ることはできない」と思ってた。今思えば確かに落ち込むこともあったけど、人間の身体ってすごいんだよ。こんなケガだって克服できるんだから。

「ようチコ、お前は何でも滑れるんだな! 角材でもイケるんじゃないか?」
 

 いろんなシェイプを試し始めたのは、それから。少し調子がよくなってきた頃にサム(・スマイス)に連絡して、オールドシェイプのデッキがあれば送ってほしいと頼んだんだ。脚力を戻すリハビリ用としてね。それででっかいブライアン・アンダーソンのモデルを送ってくれた。倉庫に1000枚くらい残ってたんじゃないかな。当時は売れてなかったんだよ(笑)。
 それにソフトウィールをつけて、ポトレロでパンピングし始めたんだ。しばらくしてハードウィールに変えて、少しずつ脚力を戻していった。それである日、突然ノーリーヒールをやってみた。すると見事にメイクできたんだ。「マジで!」って感じだった。
 びっくりしたよ。というのも、当時はオールシェイプのデッキはでかすぎると思ってたから。すべてのトリックの感触は違うけど楽しくて。どんどんハマって、滑る頻度も増えていった。デカくて変なデッキだったからプレッシャーを感じることもなかったんだ。ただただ楽しむことができた。
 一番不思議だったのは、ケガをした後でも、このでかいデッキを問題なく回すことができたこと。すべてはウィールベースだということがわかった。ケガをする前は8.5インチに乗ってたんだけど、360フリップをするのがやっと。最悪だった。「なんでみんなこんなでかいデッキで滑ってるんだ?」って思ってたよ。当時は8.25インチ以上のボードには乗らないようにしてた。
 それがオレの限界だったんだ(笑)。すべてはウィールベース。正直なところ、そのことがわかると、サイズに関してかなりマニアックになったよ。その結果、オレのウィールベースは14インチか14.25インチでなければならない。それ以上だと、フリップトリックがうまく回らない気がしたんだ。デッキに穴を開けてトラックの位置をズラしたりもした。そうせざるを得なかったんだ。自分に合うウィールベースにしないとダメだったから。
 オールドスクールのデッキに関しては、ヴァーン・レアードが古いトミー・ゲレロのシグネチャーの復刻版を送ってくれたのがきっかけだった。そのときはサインをもらって壁に飾ろうと思ってたんだ。たまたまキャバレロの復刻版も手に入れて、当初はそれで滑ろうと思ってた。でもSFに拠点を移して、トミーは今までで一番好きなスケーターだから、オールドスクールのデッキに乗るならTGしかないと思ったんだ。間違いないよね。
 気がつくと、そのデッキに穴を開け直してた。14インチのウィールベースが必要だったからね。それで滑り始めた。そしてすぐにノーリーフリップができたんだ。次はトレフリップ。全部できるようになった。そうやって新しいパートのアイデアが生まれたんだ。

 

C: 誰のシグネチャーモデルであるかということは重要だった? というのも誰のシグネチャーを選ぶかは、そのプロスケーターへのオマージュでもあるわけでしょ?

CB: オレにとってはオールドデッキでどんなことができるのかが重要だった。そのデッキが発売されたときにはまだ存在しなかったトリックをやってみたいという気持ちが強いんだ。でも誰のシグネチャーであるかは間違いなく重要な要素。だって好きじゃないプロのデッキには乗りたくないだろ? オレが乗ってきたオールドデッキはすべてリスペクトするスケーターたちのもの。TGやジェイソン・リーのように「スタイル」のあるスケーター。ジョバンテやブライアン・ロッティ。何をやってもクールな連中。時代を超越してるんだ。
 たとえば、ドードーボード(Blindのジェイソン・リーのシグネチャー)に乗ってたときはたまたまLAにいたから、あのレンガのバンクまで行って'90年代前半にジェイソンがやっていたトリックのことを考えたんだ。バックリップのリバートとかノーズピックとか。
 あれは今でもヤバい。マジですごい。オレもトライしてみたけど信じられなかった。今でも超タイトなのに、何十年も前にやってたなんて。ヤバいよね。

C: でもウィールはどうしたの? EMBで39mmは厳しいよね。

CB: 当時のウィールはヤバかったよね。WIからオレンジ売りのグラフィックのシグネチャーが復刻したんだ。3枚送ってくれたから、当時と同じセッティングにして乗ろうと思った。でも40mm以下のウィールが見つからなくて(笑)。とにかくEMBに行って滑ってみたんだけど最初は不可能だった。「昔はどうやって滑ってたんだ!?」って感じ。必要以上にプッシュしないと無理。しかもウィールがあんなに小さいと地面の感触がすべて足に伝わってくる。あれはヤバかったね。でも 3日か4日目にはそれが普通になってた。それからはそんなに悪くなかった。正直なところ、どんなデッキでもほとんどのトリックができるような気がする。ただ時間をかけて慣れればいいだけ。

C: 角材でスケートするというアイデアはどこから来たの?

CB: それはオレの投稿にコメントをしてくれた人たちに「ようチコ、お前は何でも滑れるんだな! 角材でもイケるんじゃないか?」みたいに言われたのがきっかけ。そして娘とホームセンターに行ったんだ。気に入った角材を見つけて家に帰って、それをカットして穴を開けて。そしてポトレロで滑ってみた。これが結構イケたってわけ。それがChico Stixのロゴに繋がったんだ。クレイジーなアイデアだった。最初はちょっと難しかったけどね。トレフリップをやろうとしても2回転しちゃう。力を入れず軽く蹴らないとダメなんだ。結局大切なのはそれだけ。オレはいろんなもので何ができるか試すのが好きなんだ。喜びを感じる。ノーリーヒールがまだできればうれしい。どんなデッキでも最初にトライするトリックだから。オレのテストトリックなんだ。

C: でもノーズがないデッキでどうやってノーリーヒールをするの?

CB: ノーズマニュアルからノーリーヒールでアウトできるだろ? あれに似てるんだ。あれを覚えるのに何年もかかった。だっていつもマニュアルの状態でポップしようとしてたから。だからいつも身体だけ前に飛んでいくんだ。ノーズマニュアルをしきってからデッキを回さないとダメなんて知らなかった。ポップしないで、ただ蹴り出せばOK。ノーズなしのデッキでノーリーヒールをするときも同じ。デッキに絶妙なプレッシャーをかける感じ。

C: ニカラグアからアメリカの国境を越えた頃の話は今や伝説だけど、家族はスケートに対してどう思ってるの?

CB: 最初の頃は確かにあまりよく思ってなかった。'90年代に初めてニカラグアの家族に会いに行ったとき、そこでスケートしてる人は皆無だった。誰もいない。だからみんなに説明するのはちょっと大変だった。でもそれから毎年通うようになって、徐々にスケーターが増えていくのを見ることができるようになったから不思議だ。翌年に戻ってくるとスケーターがふたりになってた。そして3人になった。気がつくとスケートパークができてて、デモのためにプロスケーターを連れていくようになってた。それから間もなくして小さなショップCentralを始めることになって。今では母親のお客さんがオレのことを知ってるくらい。IGでオレをフォローしてくれてるんだ。先日も、オレのデッキを欲しがっているお客さんがいたらしく、サインをお願いされたんだ。もちろん、喜んでサインしたよ。

C: 最高だね。というのも、昔は「プロスケーター」という言葉がどの程度通用するのかわからなかったから。当時は気まずい思いをしたんじゃないかなって。

CB: 誤解しないでほしいけど、今も気まずいよ(笑)。特に年齢を重ねるにつれてビックリされることが多くなった。「まだあの板切れで遊んでるの? まだ諦めてないの?」って。でもそんなこと言われても怒れないよね。自分でもキャリアがこんなに長く続くなんて思ってなかったから。EMBの時代は、車を買って学校に通えるだけの金を稼げればいいと思ってた。それだけを目指していたんだ。キャロルやジョバンテはオレなんかよりずっとヤバかったから。自分がまだここにいるなんて想像もしなかったよ。

C: 昔はプロには厳しい年齢制限があったからね。

CB: そういえば、昔はEMBに来る上の世代のプロをバカにしてたのを覚えてるよ。「あのジジイ見てみろよ!」って。上の世代って言ったってまだ20代前半だったのに。
 ジェイソン・リーでさえそう。最近ジェイソンと話してて言われたんだ。「チコ、聞きたいことがあるんだ。昔はEMBに行く度にいつもキミたちから圧力をかけられてるような気がしてた。やっぱそうだったの?」って。
 「あああ。ヤベェェェェェ」って思った。だってマジでそんな感じだったんだ。みんなジェイソンのことは好きだったけど、当時のオレたちの世界はEMBがすべてだった。オレたちの戦場だった。 オレたちの戦場に足を踏み入れたら誰だろうと関係ない。ただしこれはリスペクトしてないというわけじゃない。
 オレたちがジェイソンとそのスタイルが大好きだったのは確かだ。スケートに行く前にキャロルの家でいつもジェイソンのパートを観て気合を入れてたし。でもEMBという戦場では、オレらと意気投合できなければ、そんなヤツはどうでもよかった。上の世代のプロはEMBでオレたちと一緒に滑らないことが多かったから、圧力をかけられてると感じたのかもしれないね。

C: 当時、EMBがスケートにこれほどまでの影響を与えることになると思ってた?

CB: 当時は思ってなかった。人はオレたちがやってたことを歴史的な出来事だと話したがる。でも当時のオレたちは知らなかった。みんなクソガキで、たまたまEMBがオレたちのお気に入りのスポットだったってだけ。ハングアウトして、悪態ついて、仲間のヤバいスケートを見られる大好きな場所だった。
 EMBの重要性に気づいたのは、オレらのスケートを見るために世界中から人が集まってくるようになってから。突然、何百人ものキッズがあのリトルスリーに座って見るようになった。毎日がデモみたいだったけど、オレたちはただ滑ってただけ。みんなあの場所の一員になりたがってた。
 EMBは自分たちを証明する場所だった。あそこで多くを学んだよ。神経が図太くなければ狼に生きたまま食い殺される。悪態を上手く流すことを覚えないとならない。そしてケンカになっても逃げるのはNG。あそこでかなり成長したと思う。EMBで生き抜けば、どこでもやっていける。

C: 本名はロランドなんでしょ?

CB: ロランド・アントニオ・ブレネス・センテーニョ。こんな長い名前、デッキに載せられないよね。オレのキャリアは1年もたなかったはず(笑)。リック・ハワードはオレを「ロリー・バーンズ」と呼んでたけど。今でもそうだね。

C: (笑)。チコという名前はどこから来たの? 「メンタルメックス(イカれたメキシコ人)」については?

CB: メンタルメックス(笑)! チコは中学校の頃につけられた。ある日、校庭でバスケットボールをしてたんだ。チームにチェコーという黒人がいたんだけど、どうしてもその名前を上手く言えなかったんだ。当時はまだ英語が下手で。オレはそいつに向かって、「チコ!」と叫び続けたんだ。「チコ! チコ! ボールをパスしろ! チコ! チコ!」って。ずっと叫び続けてたらそいつがゲームを止めて、「オレの名前はチコじゃない! チェコーだ!」って言われて。
 「ああああ…。ゴメン」って。
 それがなぜか自分に返ってきて、それ以来オレのニックネームは「チコ」になったってわけ。神に感謝だね。
 メンタルメックスはジェイク・ヴォーゲルが命名したんだ。EMBではみんなニックネームがあった。突然、「ウィングディング」とか「マスかきデニス」とか…。

C: 「オタク」ってのもあったよね。

CB: ジェイクはオレをメンタルメックスって呼びたがったけど定着しなかった。「オレはニカラグア人だ、バカヤロー」って感じで。 ヤツはオレの顔を見ながら困惑してたよ。
 「なに? オマエらはみんなメキシコ人じゃないのか?」って。
 「違うよ、バカ」って返してやった。

C: でも「メンタル」の部分はどうやってついたの?

CB: 昔は変なことしてたんだよ。たとえば…よくわからないけど、10代のクソガキがするようなこと。『Love Child』のエンディングでオレがプールの周りを小走りしてるシーンを覚えてるか? アホみたいに飛び跳ねてるやつ。

 

C: (笑)。あったね。

CB: 自分でもなんであんなことやったのかわからないけど、昔はそんな感じだったんだ。それでメンタルメックスって呼ばれた。

C: オンラインでザ・セブンでバック3をやってるスポンサー・ミー・テープを発見したよ。

CB: あれはSmall Roomに送る用のビデオだった。ヤツらがやってた小さなモノクロの広告が好きだったから。それでビデオを作って送ったんだ。その1ヵ月後にラス・ポープから断りの手紙が来たよ。今もまだ持ってるけど。サインもしてくれた。最近になって、それがまだ活動してるあのラス・ポープだと知ったんだ。それをIGに投稿したら、誰かがラスをタグ付けしたんだ。「ヤバい。変な意味じゃない」って感じだったけど。まあ、おもしろい話だよね。

 

C: 他には送らなかったの? Small Roomだけ?

CB: 送らなかったね。当時は移り変わりが早かったから。だってサル(・バービエ)からH-Streetのシグネチャーをもらってブチ上がってたから。それからジム(・シーボー)からデッキをもらうようになったんだ。Realのツアーに参加する予定だったんだけど、ジョバンテがEMBでこう言ったんだ。
 「おい、WIに来い。オレに任せろ」って。
 「ああ…わ、わかった」って言うしかなかった。
 そしてヤツはすぐに行動に移したんだ。通りの向こう側まで走って公衆電話でロドニー(・ミューレン)に電話し始めて…。気がつくと自宅に荷物が届いてた。信じられなかったよ。

C: そんな簡単にチームに加入したの?

CB: そう。突然LAに飛んでガイ(・マリアーノ)と(ティム・)ギャビンと一緒にスケートをすることになった。そのときにみんなと出会ったんだ。ガイはノーズスライドからのノーズグラインドをやってた。当時はそんなこと誰もやってなかったんだ。衝撃的だったね。SFに戻ってからEMBに行って、「おい、ガイがこんなことやってたぞ! オレらは遅れてる! ヤバいぞ!」って言ったのを覚えてる。とにかくWIに加入したのはそんな感じだった。ジョバンテが公衆電話から電話しただけ。その公衆電話も異常だったんだけどね。公衆電話にいつも世界中から電話がかかってくるんだ。どうやって番号を知ったかわからないけど、当時のオレたちのIGみたいなものだった。
 「よお、今日はどんなトリックやってるんだ?」
 「えっと、ヘンリー・サンチェスがザ・セブンでスイッチフリップをメイクしたばかり」。マジでそんな感じだった。

C: キャロルの『Questionable』のパートに収録されてたチコのラインについては? あのスイッチヒールとハーフキャブフリップのライン。

CB: 一緒に動いてたから。当時はジェイク・ローゼンバーグがマイクを撮ってたから、つねにカメラが回ってた。リトルスリーでセッションが始まって、ジェイクが撮影を始めてオレのクリップが撮れた。気がついたらキャロルのパートに使われてた。何も聞かされてなかった。ビデオを見ていたら、突然…「ヤバっ!」て。あれはうれしかったね。

 

「WORLD INDUSTRIESのライダーなのにGIRLのデッキに乗ってるクリップもあった。当時はどうでもよかったんだ」
 

C: 『Love Child』のSteppenwolfの曲は自分で選んだわけじゃないよね?

CB: 全然違うね。実はあの曲が使われてちょっとがっかりしてた。だって撮影を終えてニカラグアに行って、戻ってきてビデオを観たらあの曲だぜ? ソクラテスとデーウォン(・ソン)がいる編集室で「何これ?」って感じで初めて観たのを今でも覚えてるよ。でもデーウォン以外はみんな自分の曲にがっかりしていたような気がする。ヤツはおそらく自分の曲を選んだんだろうけど、他の連中はノーチョイスだった。

C: 当時はパートを撮影することは知らされてたの? というのもクリップの半分はPowell Skate Zoneで撮影されてたよね。

CB: (笑)。当時はそういう感じだったんだよ。ただ滑って撮れるものを撮るだけ。とりあえず撮影するんだ。何でもよかったんだよ。スケートパークでもプレッシャーフリップでも。両足が地面についても。「撮れた? よし次」って感じだった。

C: でもクルックスからのフェイキーノーズグラインドのエンダーはヤバかった。今もやってるもんね。

CB: ああ。たぶんまだできる。またトライしてみようかな。最近はノーズスライドからノーズグラインドが多いけどね。EMBのCブロックは丸くて好きだった。あれ系のトリックが簡単なんだ。あのようなレッジを見つけるのは難しい。それにもうそんなにスピードも出せない。最近は自分が心地いいスピードで滑るのが好きだね。

C: 気持ちよくなきゃ意味がないからね。

CB: (笑)。間違いない。それにワックスもあまり好きじゃない。今のキッズはワックスが大好きだよね。どうしようもない。レッジが滑りすぎて危ないでしょ。

C: 同意だね。では例のオレンジ売りのグラフィックはどのように生まれたの?

CB: あれはLAに行き始めた頃のものだね。WIに向かう途中、フリーウェイの出口を降りると脇でオレンジを売っているおじさんたちがいつもいたんだ。なぜかわからないけど、それがすごく印象に残って。それでマーク・マキーにそのことを話したんだ。当時はまだ自分のボードグラフィックに対して意見できる時代だったから。それであれが完成した。いつも「あれがオレの初シグネチャー」って言ってるんだ。実は違うんだけどね。というのも、オレの初シグネチャーはヌーディストコロニーのグラフィックだったんだ。母親に見せられなかったよ(笑)。

C: (笑)。ああ、裸の年寄りがバレーボールやってるヤツだよね。

CB: そう。母親に見せられるわけないだろ。だからプロになったけど、デッキを見せられなかったという…。
 「母さん、プロになったよ!」
 「まあ、よかったわね! デッキを見せて」
 「どこに行ったんだろ…。どっかにあるはず!」

C: (笑)。ヤバいね。

CB: デーウォンとシャイロと同時期にプロに上がったんだ。3ヵ月ほど一緒にツアーに行ってね。何も知らずに、ただただ小さな子供たちが楽しんでただけ。帰ってきたらロドニーが「おいチコ、キミをプロにしたいんだ」って。
 「いやいや、まだ早いよ」って感じだった。
 というのも、さっきも言ったようにオレにとってのプロとは、ジェイソン・リーやブライアン・ロッティのような人たちだった。そのレベルじゃないからロドニーに「やめてくれ」と懇願したのを覚えてる。無理でしょ。それなのに1ヵ月後にFTCに行くとケント(・ウエハラ)が「よおチコ、オマエのデッキが届いたぞ!」って。
 「まあ、プロってことか…」と思うしかなかったよ。

C: 当時のWorld Parkのいい話があれば。チコもデッキを必要以上にくすねてたタイプ?

CB: もちろん。パークの小部屋や倉庫に侵入してね。鍵のかかってない倉庫の横のドアを見つけたのもオレだったと思う。あそこにはいいものがあったんだ。いつも忍び込んで、デッキを25枚くらい取ってた。多いけど許される範囲。でもジョバンテにそのことを話したら気が狂ったように盗り始めて。100本くらい持っていくんだ。しかもそれを何度も。制御不能だったね。
 「おいジョバンテ、バレないように盗れよ!」って。
 ある朝、ガイがBen-Gay(筋肉痛用のクリーム)で歯を磨いてたこともあった。洗面所でくちゃくちゃになって置いてあったから間違ったんだ。そして2段ベッドがある部屋に戻って来てこう言ったんだ。「よお、めちゃ不味いんだけど。チコ、あの歯磨き粉は何味だ?」
 「あれはBen-Gayでしょ」。笑えて死にかけた。

 

C: ちなみに『New World Order』のイントロでは何て叫んでるの?

CB: ほら、そうなるだろ? あれこそメンタルメックスタイルだよ。ビーチで女の子に叫んでるヤツ。
 えっと…。「プナニ(女性器)」って言ってるね。

C: (笑)。それは聞き取れた。

CB: そう。「ニカラグア式で女をゲットするぜ!」って感じだったんじゃない? スケートスポットでアホばかりしてるガキだよね。

C: 当時LAに住んでなかったのにBeryl(バンクtoレッジのスポット)で撮影されたクリップが多かったよね。しかも簡単そうに滑ってた。

CB: いや、あれは全然簡単じゃなかったよ。Berylは超難しかった。あのスイッチFsヒールは時間がかかったし。その数年後にLRGのビデオではベンチ越しのノーリーバックヒールをやったんだ。あそこはやっぱり難しい。何年経っても簡単にはならない。あの頃はWorld Parkでの練習が役に立ってたんだと思う。当時はトランジションをよく滑ってたから、あの場所が少し楽に感じたのかもしれないね。
 当時はよくLAにいたよ。ギャビンがクリス・パストラスと1ベッドルームの小さなアパートに住んでたから、そこに何ヵ月かステイしてた。クリスがベッドルーム、ギャビンはキッチンスペースで寝てた。いつもバターナイフでDune(※パストラス)の部屋の鍵を開けてテレビを見てたのを覚えてるよ。
 「誰かオレの部屋に入った?」
 「いや、知らないね」って。
 当時はギャビンとマット・シュナーとよくつるんでた。世界で一番面白いふたり。SFではオレらが狂ってると思ってたけど、アリゾナの連中はマジでヤバいね。ギャビンがパーティでウンコを隠したり。シュナーがプールでやらかしたり。相手が誰でも関係なかった。そこにいるヤツはシュナーのオルカの餌食になっちまうんだ(笑)。

C: オルカって何?

CB: オルカだよ! シュナーがプールの水面ギリギリでケツからクソを発射するんだ。今まで見たもので一番ヤバかった。あれは一見の価値あり。才能の塊だったね(笑)。

C: (笑)。Girlの話を知ったきっかけは? チコも誘われるはずだったけど、バンが満員で乗れなかった話はよく聞くけど。本当はチコもGirlのOGメンバーになるはずだったの?

CB: いや、そういうことじゃなかった。当時はまだWIにいたんだけど、一緒にGirlに行きたかった。Girlについて初めて聞いたのは、LAコートハウスで滑ってたとき。ギャビンからみんなが新しいカンパニーを始めることを聞いたんだ。ガイ、ルディ、コストン、シェフィー、ジョバンテ…。参加するライダーのリストを聞いたんだ。ヤバいよね。
 だからオレはそこに座って自分の名前が呼ばれるのを待ってて…。でもオレの名前はなかった。落ち込んだね。仲間の新しいプロジェクトを喜ぶふりはしたけど、心の奥底では死にそうだったよ(笑)。
 「よおギャビン。ヤバいカンパニーだな! がんばれよ!」
 でも本心は「マジかよ! オレ入ってねぇじゃねぇか!」てな感じ。
 それでもヤツらはオレの仲間だから。それでオレはWIに所属して給料をもらってたんだけど、その頃からGirlのデッキを乗り始めた。ご法度だけどね。WIのライダーなのにGirlのデッキに乗ってるクリップもあった。当時はどうでもよかったんだ。

C: ノーリーバックヒールの噴水インのクリップ?

CB: そう。当時はまだWIのライダーだった。どうでもよかったんだよ。ちなみにあのデッキをくれたのはギャビン。「これ乗れよ!」って。
 当時はヤツの家にステイすることが多かったから。オレをそのツアーに参加させようとしたのもギャビンだった。
 「とりあえずバンに乗れよ。一緒にツアーに行こうぜ」
 「ギャビン、気まずいよ! ライダーじゃないのに」って感じだった。
 結局、説得されたんだけどね。それで荷物を持って集合場所の倉庫に行ったんだ。するとバンの座席には全員の名前が書かれた小さなラベルが貼ってあって。だから全員が座って荷物を入れると、オレの座るスペースなんてない。オレはただ立ち尽くすだけ。最悪だった。

C: でもみんなが去った後のWIは荒れてたんでしょ? カリームとシャイロがGirlのデッキを見ると片っ端から折っちゃうみたいな。

CB: そうだね。でも本当はカリームもChocolateに行くはずだったんだ。ヤツはChocolateのOGメンバーになるはずだったけど、シャイロも連れて行きたがって。でもみんながシャイロをチームに入れたがってたわけじゃなかった。だからカリームはWIに残ることにして、ロッコがヤツに新しいカンパニーを始めさせた。そうやってMenaceがスタートしたんだ。カリームはChocolateに来るはずだった。答えはYESだった。あの時代のChocolateにカリームがいたらマジでヤバかったのに。

C: ヘンリー(・サンチェス)は?

CB: 最初はGirlに来るはずだったけど、またしても上手くいかなかった。当時はいろんなことがあってみんなマジで怒ってた。Chocolateは元々Sisterっていう名前になるはずだったんだけど、ロッコがそれを知ってすぐに商標登録して。ロッコが商標を取ったからGirlはそれを使えない。でもオレの本名のロランドを使うのと同じくらい変というか。Sisterだったら無理だったような気がする。響きがしっくりこない。

 

C: Girlが始まってそのままFTCのビデオがリリースされたよね。当時は真剣に『Finally』のパートを撮ってたの?

CB: 全然本気じゃなかった。みんなそうだったと思う。あれほどインパクトのある作品になるとわかってたら、全力でやってただろうけど。(アーロン・)メザも当時は気づいてなかったと思う。ヤツはただ「一緒にやろうぜ。ちょっと金出すから何かやってくれよ」って感じでどうにか完成させただけ。

C: Sadeの曲はチコにピッタリだったね。

CB: あの曲にはマジで感謝だよ。あの曲がオレのキャリアを支えてくれたんだ。今でもみんなあの曲を聴くとオレのスケートを連想してくれる。あの曲は完璧だった。当時はギャングスタラップしか聴いてなかったから、メザがあの曲を選んでくれて本当にラッキーだった。Sadeなんか聴いてなくて、Ice CubeとかParisばかりだったから。
 当時は「“Smooth Operator”なんか使うなよ!」って文句言ってたから。
 オレも浅かったね。というのも、あのパートに取り組んでいたときはメザが迎えに来てくれて、いつも車内でDe La Soul、A Tribe Called QuestとかDinosaur Jrを聴いてたんだ。
 「なんだこれ? ギャングスタラップをかけろよ! ゴミじゃねぇか!」って。
 メザはセンスがよかったんだ。

C: あらゆるトリックを習得しようとするのではなく、スタイルの重要性に気づいたのはいつ頃?

CB: ジェイソン・リーが出てた『Video Days』の頃かな。すべてのトリックが優雅だった。あとは服装も重要な要素だと思う。当時のジョバンテはEnigmaを何にでも合わせるのが好きだった。マジでフレッシュだった。そういうすべてを持ったスケーターを見るのが好きなんだ。

C: もっとこうすればよかったと思うトリックは?

CB: スイッチトレ。オレの急所だね。スケートゲームだと確実にSを食らう。

C: チコは良質なキックフリップバリアルをする数少ないスケーターだよね。あのトリックはみんなやりたがらないよね?

CB: ずっとそのトリックでディスられてきたよ! みんなそのトリックが嫌いなんだ!

C: なんで?

CB: トレフリップより簡単だと思われてるからかな? でも実際はトレフリップより難しいんだよ。

C: 本当に?

CB: もちろん。横回転を止めないといけないから。みんな360°の回転に慣れすぎてるんだよ。少し柔らかめに蹴って止める方法を知らないんだ。あのトリックでかなりの数の対戦相手にSを食らわせたし。一番気に入ってるのは、USCでのマニュアルからのキックフリップバリアルだね。

C: 『Yeah Right!?』の?

CB: そう。あれは気持ちよかった。まだできればよかったのに。またトライしてみようかな。

C: チコのChocolateでの役割については? しばらくは実質的なキャプテンみたいな感じだったよね?

CB: というか…そう思ってたんだけどね。でもそうじゃなかったみたい。というのも個人的にチームに入れたいスケーターが何人かいたけど断られたから。それはオレがChocolateにいた頃の最後のほうの話だけど。

C: たとえば誰?

CB: カルロス・リベイロ。ヤツは1年ほどフロウで昇格しなかった。イライジャ(・バール)にしても…。ヤツのスケートはGirlのほうが合ってると思ってたんだ。オレとしてはChocolateをOGチームと同じ路線でやっていこうと考えてたから。オレは元のエッセンスを維持しようとしてた。でもある日、リックから「Chocolateはスタイルとスケートが大切であって、特定のルックスではない」と言われたんだ。

C: Chocolateに入るにはどうすればよかったの? チーム全員の同意が必要だったの?

CB: そう。しかもChocolateだけじゃない。Girlを含む全員。だからチームに人を入れるのが大変だったんだと思う。全員と仲良くできなければ無理なんだ。ずっとフロウのスケーターもたくさんいたし。ヘスース(・フェルナンデス)なんて10年間もフロウで、やっとチームに入れたんだ。なんであんなに難しくしたんだろうね。

C: Chocolateのビデオはなぜいつもクレイジーなテーマがあるの? あれがみんなの希望だったの?

CB: いつもそんな感じだったね。

C: 演技するのは好きだった?

CB: まあ、瓶で(マイク・)ヨークの頭を割ったのはクレイジーだったよね。あれが一番好きかな。あの瓶はキャンディでできてるんだけど、ふたつしかなかったんだ。だから2トライしかなかった。ああいう撮影はいつも楽しかったよ。『Las Nueve Vidas De Paco』とか、あれだけのことをやったと思うとクレイジーだよね。砂漠の真ん中まで行ってあれを撮るなんて。許可も何も取らずにね。スパイク(・ジョーンズ)はそういう意味でギャングスターだった。アイデアを思いついたらすぐ実行。『Chocolate Tour』でトニー・ファーガソンが警官の格好をしてたのも忘れられない。リアルだったからマジで車を止めて職質してたからね。知らない人なのに。あれはすごかった。ジョークだったけどヤバイよね。役になりきってたんだ。

C: でもChocolateはずっとモンタージュばかりで脇役という感じだったよね。イラつかなかったの? そもそも『Pretty Sweet』はChocolateのフルレングスになるはずじゃなかったっけ?

CB: そうだったね。でもそれは当時のオレたちが原因だったような気がする。オレらには十分なクリップがなくて、Girlのメンバーはクリップを量産してた。それで当初の予定ではない別のものになってしまったんだ。正直、どのChocolateの作品のパートも自分のポテンシャルをフルに発揮できたとは思えなかった。たぶん当時は気ままにパーティをすることで精一杯だったのかも。いつも誰かと一緒のパートになってた。もう6年も飲んでないから、あの頃に戻りたいよ。もし頭が冴えてたら、どれだけのパートを残せただろうと考えてしまう。今この年齢でこのレベルのスケートをしてるのなら、20代半ばの自分には何ができただろう。あの頃、失敗したトリックをいくつかメイクできてたかもしれない。

C: でも『Give Me My Money Chico』のパートは、チコのベストパートのひとつだよね。このパートはどうだった?

CB: アンソニー・クララヴァルのおかげだよ。411VMのパートもそう。両方とも気に入ってる。LRGのパートでは中国や他の国にも行って、長い間撮影した。
 今でも忘れられないのは『Give Me My Money Chico(チコ、金をくれ)』というタイトルにしたいって言われたときのこと。大反対だった。チームの他のメンバーのことを考えるとね…。みんながっかりすると思った。でもアンソニーは、曲も含めてどうやったら上手くいくかすでに考えてたんだ。全部リアルだったからね。

 

C: あれはどんな感じで始まったの?

CB: スポットでトライするスケーターのテンションを上げる手段だったんだ。というのも、メイクできるトリックがあっても、なかなかコミットして撮らないことが多いから。そこでちょっとしたボーナスを用意したんだ。「すぐにメイクしたら$100」みたいな賭けをするんだ。そうすると、たいていメイクする。時には、そんなちょっとしたモチベーションが必要なんだ。それがこのタイトルの由来。
 ケリー・ハートと一緒に中国に行ったときもトレフリップをトライしてたんだ。完璧にキャッチしてるんだけど、デッキを蹴ってメイクできなかった。
 「おい、すぐにメイクしたら$100」って声をかけたんだ。
 でもヤツはメイクできなかった。それで逆にオレに$100払うはめになったんだけどね(笑)。

C: じゃあ、双方にとってウィンウィンなんだね。

CB: ああ、早く次のスポットに行きたかったから。「こんなでかいギャップなんかオレは無理。2時間もトライして最初から乗れそうだったのに。頼むぜ! 早くメイクしろよ。もしくは通報してキックアウトされようぜ」って。

C: (笑)。SF LibraryのギャップでのFsビッグヒールについては? あれは大変だったでしょ。

CB: 意外だけど、そんなことなかった。だってあの日は野球の試合に行く予定だったから。Giantsの試合が正午にあったんだ(笑)。前の晩にクララヴァルに9時集合と伝えて、1時間だけトライしようという感じだった。セキュリティのこともあるし、図書館が開く前に早めに始めないとダメだったんだ。とにかくトライした。そして「マジでメイクしないと。Giantsの試合があるぜ!」って。当時のデッキは8.25だったから、まだ回しやすかった。そして気がつくとメイク、そのままGiantsの試合へ。ブチ上がったね。

C: スポーツといえば、49ers戦でブラッド(・ステイバ)を殴ってるクリップでは何が起きてたの?

CB: (笑)。白人特有のアレだよ。
 「殴ってみろよ。ほら!」
 「いや、落ち着けよ。離れろ」「いや、殴ってみろよ」
 すると(ブランドン・)ビーブルが「チコ、殴ってやれ!」「やだよ!」
 オレが嫌がってるのに、ブラッドがオレの顔を触り始めたんだ。そうなるとビールを置くしかない。オレは顔を触られるのがダメなんだ。「ああ、わかったよ」。振りかぶってぇ〜…バコン! 思い切り殴ったね。「一発は耐えれても、これはどうだ?」。左、右、左…。まあそれは冗談だけど(笑)。ヤツはオレの顔を触りやがった。だから我慢できなかったんだよ。
 昔、ギャビンや仲間たちと一緒にハングアウトしてたときから「オレの顔に触るな」というのがルールだった。思春期を迎えてニキビだらけだったから、いつも顔を清潔に保とうとしてたんだよ。それがいつからかオレのルールになった。「チコをイジるのはいいけど、絶対に顔を触るな。殺されるぞ」っていうね。ブラッドはそんなオレの顔を触ったんだ。

C: SFに戻った理由は?

CB: この数年の活動はSFに戻ったから形にできたような気がする。面白いことにオレらが戻ってきたのは、妻がSFの看護学校に合格したからなんだ。マジでよかったと思う。娘が生まれたときはLAに住んでたんだよ。かなりつらかった。妻もオレも地元がSFだから家族にサポートしてもらうことができなかった。ふたりでデートもできなかったし。でもSFに戻ってからはだいぶ楽になった。

C: Pier 7とEMBの復活について聞かせて。それまでSFはずっと静かだったような気がする。

CB: ああ、だからLAに移ったんだ。スポットが次々と滑れなくなっていったから。まずEMBがなくなってPier 7に移動したはいいけど結局閉鎖。この街でスケートすることがどんどん難しくなっていった。だからオレはLAに引っ越すことにしたんだ。
 スケートしやすくなっただけでなく、当時のスポンサーの近くにいれるし。でもSFに戻ってこれてうれしい。いい気分だよ。この街のスケートシーンは確かに変わってしまったけど、やっぱりホームは最高だ。
 Pier 7も昔とほとんど変わらない。ヘンリー、マーカス(・マクブライド)、(ロブ・)ウェルシュが昔あそこでやってたことを考えると、ただただ頭が下がる。ケビン・ブラウンの新しいパートもPier 7だけで撮影されてた。それだけで最高なんだけど、ヤツはOGにリスペクトを払ってるんだ。同じようなフレーヴァーなんだよ。このようなスポットがまだ残ってることを証明してる。EMBはレイアウトそのものが変わってしまったけど、そのまま残ってるものもある。正直なところ、またあそこでスケートするのはいい気分だ。レンガの上を走るだけで最高。レンガが喋れたらよかったのに。

C: 以前、Chocolateでの「ミスコミュニケーション」について話したことがあったよね。シグネチャーを取り上げられるという話はなかったの?

CB: 一時期はそんな感じだった。給料の支払いがかなり遅れるようになって、それがマジで長い間続いたんだ。しかも誰もそれについて説明してくれなかった。
 いまだに原因がわからない。オレはチームの新参者じゃない。家族であるはずだった。何か問題があれば話し合って解決すればいい。「今は払わなくていいから12月に1年分払ってくれ」と電話したいと思うこともあった。でも電話しないことに決めた。だってなんでオレがそんな電話しなきゃいけないんだ? あの会社のオーナーはオレじゃないし。なぜオレが犠牲にならなければならないんだ?
 支払いが遅れた最初の頃はクビになる前兆かとも思った。それか倒産か。夜中に目が覚めて不安になることもあった。すると支払いが遅れてるのはオレだけでなく、他のライダーもそうだとわかったんだ。それでミーティングを開いて状況を確認することにした。こんなことでみんながチームを辞めるのも困るから。それでも同じ繰り返しで支払いが遅れたんだ。

C: そして『Prety Sweet』以来、チームを離れるライダーが続出したよね。

CB: コミュニケーションが取れてなかったんだ。だってオレに電話して説明することだってできたはずだから。オレはただ何が起きてるのか知りたかっただけなんだ。それだけでChocolateに居続けられたのに誰も説明してくれなかった。うんざりしたんだ。その後何年も繰り返し同じことに悩んでる自分が想像できたから。

C: 「ヤツらはオレが自分でできないことを何もしてくれない」と言ってた。これはどういう意味だったの?

CB: 最後の方はオレのためにほとんど何もしてくれてなかったんだ。ツアーにしても、スペインに撮影に行く予定があることを後から知ったりして。「は? そんなこと聞いてない」みたいな。
 チーマネに連絡して「よお、スペインに行くのか?」
 「ああ、エナジードリンクの予算で行くんだけどかなりタイトで」って。
 つまりオレがツアーに参加するなら自腹ということ。でもそれはおかしい。もしかしたらオレにはもう価値がないと思ってたのかもしれない。「レジェンド」枠みたいな。よくわからないね。

C: でもあの大ケガもあったわけでしょ?

CB: そうだね。でもこれは2014年のケガ以前の話。

C: 20年以上も一緒にやってきたことを考えると悲しかっただろうね。

CB: ああ、大変だった。関係も壊れそうになったし。やっぱりコミュニケーションが大切なんだよ。おかしなメールのやり取りもあったし。ケンカになりそうになったこともあった。そうならなくてよかったけど。オレたちはあまりにも多くのことを一緒に乗り越えてきた。いろいろ話したから今はもう大丈夫。サーフィンを通してリックともまた連絡を取るようになったし。こないだも一緒にメキシコに行ったばかり。ヤツらとはいろいろあったんだ、仲間が亡くなったりして。だからイヤなことは忘れて前に進まなきゃいけないんだ。今はいい感じだよ。

C: “7x7”のパートは「やるかやられるか」みたいな感じで臨んだの?

CB: いや、そんな感じじゃなかった。トミー(・ゲレロ)とのインタビューでは言葉の選び方で勘違いさせてしまったかもしれない。IGでは「チコが引退するかも」みたいなコメントがあったけどそうじゃなかった。

C: あのパートはどうやって形になったの?

CB: 単なる思いつき。トニー・ヴィテロに相談したら全面的に賛成してくれたんだ。物事の違う側面を見せようとしただけなんだ。当時乗ってたいろんなデッキでSFを網羅する。自分がやりたいことが何でもできるような気がして楽しかった。その出来栄えにも満足してるよ。

C: 撮影期間は?

CB: 仲間のメッキー・クレウスと2年ほどかけて撮影した。一時期は撮れたクリップの半分近くを捨てようと思ったんだけどね。最後のほうはブレンダン・ビルと撮ってたんだけど、ヤツと撮れ高を確認したんだ。それで大半を捨てたくなって。そしたら「おい、何を言っているんだ。このパートの趣旨をちゃんと考えろ。冷静になれ」って言われて。
 個人的に気に入ってたクリップまで捨てようとしてたから助かったよ。そのときはいろいろ不安になったんだ。最近の若いスケーターのレベルはハンパないから。でも自分らしさが大切なんだ。みんなオレが滑ってる姿を見て楽しみたいだけということが今はわかる。それとノーリーヒールね。

C: (笑)。トミーのデッキとソフトウィールでFort Mileyでやったレーザーもヤバかった。

CB: 「うまくいくかやってみよう」って感じだった。トライしたら半回転したんだ。そして次はもう少し回った。そして気がついたらメイク。トミーのデッキにBonesのソフトウィールのG-Slide。でもパワースライドもできる。これ以上やわらかくするとパワースライドができなくて吹っ飛んでしまうから。

C: リトル3でのフェイキー540フリップも最高だったね。

CB: あれはKrookedのZogger。でかいデッキで幅が11インチほどある。

C: あのデッキは回しにくかった?

CB: いや、Zoggerは実際、回しやすかった。レーザーフリップもできたし。ノーズマニュアルのノーリーヒールアウトも。だから自信があったんだ。「ステアでフェイキービガースピンができるかも。EMBでトライしてみよう」って。あれを撮影したのは最後のほうだね。
 難しかったけどね。足がズレたスケッチーなメイクもあった。ぎりぎり足が乗ってるみたいな。5回くらいスケッチーなメイクが続いて、ようやく1回だけクリーンに完了。エリッサ・スティーマーもいて、「1発目でもよかったじゃん!」って言ってたね(笑)。でも、個人的にそれじゃダメなんだ。

C: 何時間も同じトリックをトライするタイプ?

CB: いや、全然。だから長い間、ケガをしなかったんだ。難しいことをトライするときは、必ず10回だけと決めてるんだ。10回だけ。なぜなら大ケガせずにまたスケートしたいから。兆候には注意を払わないと。2014年にケガをしたとき、新しいデッキをセットアップしたんだ。そしてそのデッキに慣れるためにノーリーヒールを5回試したんだけど、どれも失敗。それはまさに兆候だよ。どうりでケガしたわけだ。すぐにデッキを変えるべきだった。
 今はどのデッキをセットしてもそうしてる。まずノーリーヒールをやってみる。うまくいかなければ、別のデッキに変えてるよ。

「子供たちがオレの仕事を理解してくれるまで続けてこられたことを誇りに思う。それがオレの夢だったから」
 

C: なるほど。

CB: そうだろ? もし失敗したら、それはオレのせいじゃないから。十八番のノーリーヒールだぜ? メイクできなければデッキのせい。その前の大きなケガは2000年だから、ずいぶん前のことだ。15年間ほぼケガなし。 なぜか知りたいか? 10トライのルールだよ。若い世代みたいに3時間もねばって何度もトライするなんてことはしないんだ。ベガスのギャンブルと同じ。いつかは負けるんだ。
 フォトグラファーも同じ。
 「そのトリック、もう1回やってくれないか?」
 「1回目にメイクしたときに撮ってなかったのか? 絶対にイヤだね。じゃあな」って(笑)。
 機材をいろいろセッティングしてるにもかかわらず帰るんだ。
 「オレはトリックをメイクした。オレの仕事は終わりだ。撮れてなかったのか?」
 クソだろ。

C: ブランドネームは昔のChocolateのグラフィックが由来なのは知ってるけど、Chico Stixを始めたきっかけは?

CB: Chocolateを離れた後はどうなるかわからなかったから、ひたすらスケートしてクリップを出し続けた。そしてその反響はポジティブなものばかりだったんだ。ゲストボードの話もよく来るようになったし。でも当時はそんなこと望んでなかった。オレは自分の居場所を探してたんだ。しかも適当なボードスポンサーじゃダメだ。ちゃんとしたところでなければならない。最高のカンパニーを離れたからには、どこでもいいってわけじゃない。納得できないと。
 当時、考えてたカンパニーはふたつしかなかった。PalaceとKrooked。本当はそれがよかったんだけどうまくいかなかった。それにオレは「チームに入れてくれ!」みたいな、そういうことをしょっちゅう言うタイプでもない。
 オレの最近の動きは知ってるだろ? 興味があるならやろうぜ。そうじゃないなら邪魔しないで好きにやらせてくれ。でもオレはこの結果に満足してる。結果的に自分で望むものを形にすることを余儀なくされてよかったと思う。
 実は以前、Centralのデッキを作っていたときに、同じようなことをやってみようとしたことがあったんだ。ただ、片足をCentralに、もう片足をChocolateって感じで、いつもズルズルやってるような感じだった。完全にコミットしてなかった。怖かったんだ。

C: それを考えると大きな飛躍だね。

CB: オレが本当にやりたかったのは、Centralをブランドとして育て上げて、それをChocolateに持ち込んで、オレひとりでもこれだけのことができるということを示すことだった。そしてCentralに移行するつもりだった。そういう計画だったんだ。Chocolateを通してCentralをやりたかった。だってアーティストはいるし、ライダーも集められる。必要なのは流通の手助けだけ。それ以外のことは全部自分たちでできる。そこで一番仲がよかったマイクに相談したんだ。でも何も起こらなかった。とにかくこれがオレのずっとやりたかったこと。そしていろんなシェイプを試した結果、自分に合うものを改良して発売することができると思った。ブランドの定番シェイプであるBig Boyからスタートし、そこからいろんなシェイプを世に送り出してる。もしかしたらChico Stixの角材が出るかもしれない。楽しいものにしたいから。
 でもこんなに話題になるとは思ってもなかった。だから初回は100枚しか作らなかったんだ。30枚売れれば元が取れるから。それにアメリカで売れなくても、ニカラグアに行って残りを安値で売ることができる。それが最初の計画。どちらかというと1回限りのプロジェクト。でもその第1弾が1日で完売したんだ。それから数ヵ月後の第2弾もすぐに売り切れた。「ヤバい、これはいけるかもしれない!」って感じだった。

C: 全部自分でやってるの?

CB: まあ、チコがスケートして、ロランドが梱包してると思いたいね。ヤツはショップやディストリビューターとも話をしてる。そして仲間のジョージ・ウィンがグラフィック担当。ヤツは最高だ。でもそれ以外は全部オレ。娘も手伝ってくれる。大変だけど楽しいよ。このようなものを作って人と交流するのはいい気分だ。

C: ミニデッキのガイのクリップについては? あのフロントフリップはヤバかった。

CB: あれはヤバいよね。あれ以降、なかなかあのデッキで滑れなかったから。結構前にヤツにミニデッキを送ったんだけど、ツアー中か何かで連絡がなかったんだ。それでそのミニデッキをサイトにアップしたら、2日後にそのクリップが送られてきた。最初はノーコンプライ。そして次がフロントフリップだった。ぶっ飛ばされたよ。あのスポットは普通のデッキで滑ったことがあるけど、それすら難しかった。それをあんな小さなデッキで…。ヤツはマジで最高だ。

C: 他のプロを起用することは考えてる?

CB: もちろん。でも同じようなヴァイブスが必要。スケートを楽しんでる雰囲気。いつか形にしたいね。ずっとリスペクトしてきたプロのゲストモデルを作る予定なんだ。

C: 早く見たいね。では今後の予定は?

CB: これからも楽しみながら、このブランドのためにがんばるつもり。もちろんスケートも。今ドキュメンタリーも作ってるんだ。Residenteというラテン音楽の大物アーティストで、以前からの知り合い。ヤツはオレのことをよく知ってて。オレの半生について、ニカラグアの話や母親のこととか、深く掘り下げたドキュメンタリーを作ろうと言い出したんだ。楽しみだね。

C: では最後になるけど、30年のスケートキャリアを振り返って最も誇りに思うことは? そして最大の後悔は?

CB: 子供たちがオレの仕事を理解してくれるまで続けてこられたことを誇りに思う。それがオレの夢だったから。だっていつ自分のキャリアが終わるかわからないとずっと思ってたから。

C: ああ、『Chocolate Tour』のエンドクレジットに息子の名前が入ってたのを覚えてるよ。

CB: あいつはもう26歳だよ。

C: マジで!

CB: だろ(笑)? あいつが歩けるようになった頃、あいつがオレの仕事を理解できる年齢になったときもまだスケートできてたらどんなに素晴らしいだろうと考えてたのを覚えてる。それが実現した。そして娘が生まれて、もう12歳。娘の先生もオレのことを知ってる。今日も先生へのプレゼントにデッキを届けたばかり。

C: 最高だね。

CB: 後悔は自分のスケートキャリアをビジネスとして考えなかったことかな。これは事実だ。楽しむことも大切だけど、もう少し賢くやるべきだった。特に晩年まで続けるつもりならね。だから若い世代はちゃんと契約内容を確認したほうがいい。大好きなことをこんな風に言うのは気が引けるけど、ちゃんと書面に残しておかないと。マジで大切だから。

 

問い合わせ
closerskateboarding.com / @closerskateboarding
@bptrading

 

  • NB Numeric: New Balance
  • PUMA