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T19初のプロライダーにして、スケートを取り巻くさまざまなカルチャーに精通した最重要人物。'90年代初頭に東京のスケートシーンを牽引し、海外のコンテストで好成績を残したパイオニア。日本のスケート史はこの人なくして語れない。
──AKIRA OZAWA / 尾澤 彰

2021.09.02

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photo_Iseki
Archive photos courtesy of Akira Ozawa

VHSMAG(以下V): まずスケートを始めた頃の話から聞かせてください。始めたのは'80年代半ばくらいですか?

尾澤 彰(以下A): 中1だからそうだね。当時はスケートとかサーフィンが流行ってたんだよ。団地にあったデッキをかっぱらって始めた。それをみんなで乗ってスラロームやったり。がんばって空き缶を1個飛んだり…その頃はボーンレスくらいはしてたかな。

V: やっぱり当時はサーフィンの影響が大きかったんですか?

A: いや、サーフィンは2回くらいしかやったことない。とにかく当時はスケートが流行ってて、みんなくねくねしてたよ(笑)。

V: 当時のシーンはどんな感じだったんですか?

A: 当時は足立区に住んでて上野が一番近い街だったから、上野公園に朝から晩までいてさ。MAX MOTIONっていうショップとかムラサキがあって。それでショップのチームが敵対してたんだよ。たとえばサルーダは敵のMAX MOTIONにいたんだよね。オレはムラサキだったから、同じ上野公園で滑るんだけどすごい当て込んできて。トリックを決めて無言で去ってくんだよね。そうすると「生意気だ。ぶっ飛ばしてやる」ってなるじゃん(笑)。だけどだんだん仲良くなって、Yoppiも原宿からくるようになってって感じ。

V: 上野公園のスポットってレンガのアールがあるところですか?

A: そう、美術館。あそこには超いたね。ワカさんの映像がそうだね。

 

V: ダイコンくん、江川くん、サルーダくんも出てますよね。

A: ジェシーやジェフ・ダンもいて。ディックマンっていうオレのスケートの師匠も出てる。あのときもディックマンはヤバかった。異常だった。ニーヤンとディックマンは異次元の人だったね。

V: 同じ上野公園でも当時はMAX MOTIONとムラサキと派閥があったんですね。

A: 都内だとザックリ、MAX MOTION、ムラサキ、STORMY。

V: 当時は原宿と上野も敵対というかバチバチだったって聞いたことがあります。

A: 当時のオレらはSTORMYが嫌いだったからね。でもまあ、子供の頃だからそう言ってるだけで。メディアが宝島とかだったから原宿の写真が多かったよね。(川村)諭史とYoppiみたいな。それでオレらはオマケで「上野」「下町」って感じ。当時は代々木のホコ天が流行ってたから。あれがすごかったよね。上野のホコ天でも散々ジャンプランプ出してやってたけど…。でも上野はやっぱMAX MOTIONが強かったね。カツさんもアキさんもいて、Shine A MoonとかAir Trucksもあったし。MAX BRIGADEって当時のチームも超すごかったから。

V: チームには誰がいたんですか?

A: 当時はまーちゃんっていう五十嵐まさひろ、サルーダ、ケニー、門馬、シミコー、オッチ、ユウジくん…ジェシーもそっち側にいた。あとカックンとヒロくん。

V: 当時のムラサキはどうだったんですか?

A: オレとかディックマン。オレらがほぼほぼムラサキの元祖ライダーだったから。昔はウィールとかトラックを作ってたからテストライダーから始めて。だからムラサキが初めてのスポンサーだね。

 

V: アキラットパークは時代的にその後ですか?

A: いや、その前だよ。中2とか中3。100mから200mにおよぶ壮大なる盗品のコンパネとドラム缶で成り立ってたDIYパーク(笑)。初めはクオーターパイプとフラットバンクを作って、だんだん盛り上がってきてさ。高速の下だったからどんどん拡大していったんだけど、地元の暴走族とケンカになって壊されたり燃やされたり。川沿いだから超でかい壁があるんだけどさ、そこに暴走族にでっかく「アキラ殺」って書かれたり(笑)。

V: ゴリゴリの時代ですよね…。当時影響を受けたスケーターは誰だったんですか?

A: ディックマン、ニーヤン、Oさん(大瀧ひろし)、三野くん。海外だと'80年代のゴンちゃん(マーク・ゴンザレス)かな。NSAの大会とか出てたときの。やっぱ昔の無垢な感じがよかったよね。

V: 彰くんはT19の初ライダーですよね。でも'80年代半ばからT19はTOKYO SKATESという名前のクルーとして存在してたじゃないですか。彼らはどんな存在だったんですか?

A: 東京はOさんが一番おっかなかったから。見た目が怖いよね。三野くんだってでかいでしょ。しかもオシャレでスケートも夜遊びもしてて。仲間もすごかった。ニーヤン、スティーブ、山ちゃん、(藤原)ヒロシくんもいて。あのセットがすごかったな。Oさんと三野くんは原宿のムラサキで、オレは上野のムラサキなんだけど…そんなの関係なかったね。サルーダと一緒に原宿でふたりを見た瞬間に自分らの板を隠したもんね。スケーターじゃない振りして(笑)。

V: 今はそういう存在のスケーターが劇的に減りましたね。平和というか。

A: オレ的にはそういう馴れ合いとか好きじゃないんだけどね。「あまり仲良くならなくてよくない?」って思っちゃう。仲良くても張り合いがあればいいんだけどね。いがみ合ったり相乗効果もあると思うからさ。昔はピリピリしてた。今はみんな仲良しでお利口だよね。オレは年寄りだから現代のそういう風潮にはついていけない(笑)。

V: ちなみにニーヤンって人は当時の伝説みたいな存在として捉えてるんですけど…。彰くんと同世代で早くからTOKYO SKATESの一員だったんですよね?

A: ニーヤンはディックマンと同じでひとつ上。だけど先輩たちのクルーにひとりだけ入ってたんだよね。大会で結果も出すし。西武の大会とかもダウンジャケット着て…真っ赤なダウン着て優勝しちゃうんだよ。ふざけてるよね。一生忘れられない。すげぇかっこいい。オレは同じ大会に出て2秒で肩を脱臼したもんね(笑)。

V: 彰くんにもそんな時代があったんですね(笑)。それから'80年代終わりとかに東京で一番怖かった大瀧さんに声をかけられてT19に迎え入れられたんですよね。

A: そう。昔は江東区にAme'sっていうインドアのスケートパークがあったんだよ。声をかけられたのはそこだね。

V: 彰くんが管理人やってたパークですよね? 

A: そうそう。オレとサルーダが管理人で、スケーターが来たら「ちょっと見てて」って言って上野に買いもん行ったりとかしてて。

V: パークで「オラーーー!」って叫んでたイキのいい彰くんをOさんが気に入ったって噂を聞いたことがあります。

A: マジで? Oさんがいきなり三野くんと来て「ちょっといい? うちの乗んねぇか?」って。でも最初にOさんに誘われたのはT19じゃなくてBe'-In Worksっていう会社兼ブランド。当時もサルーダと仲良かったから「こいつも一緒だったら乗るっす」って。そういう流れだったと思う。

V: そうでしたね。T19はもともとBe'In-Worksのオリジナルデッキだったんですよね。当時のT19はどうでした?

A: 最高だよ。だって家族よりみんなと一緒にいるから。みんな好きなことをやってた。

 

V: かつては2秒で肩を脱臼した彰くんもこの頃は国内の大会を総ナメでしたよね。数え切れないくらいトロフィをもらったんじゃないですか?

A: 当時は子供だったから「いらねぇ」って母親に渡してたけど、まだ実家にあってさ。大人になって自分の部屋を掃除してたらミカン箱4個くらい出てきた(笑)。ほら、昔は同じ日にストリートとミニランプの大会があったりしたから両方優勝したりしてさ。タフだったよね。

V: 国内で印象的だった大会はありますか?

A: 大阪のアスコットの外の駐車場でやった大会で優勝できたのはうれしかったな。

V: 覚えてますよ。ヒップでバックフットのレイトフリップとかやってましたよね。

A: あのお手製感がいいよね。大会中にセクションに穴が空いても上手いヤツはそこをよけて攻めたりさ。セクションを勝手に動かしたりさ。今のセクションは固定でしょ? だからトリックについては考えるけど、セクションに関して想像力は必要ないわけじゃん。昔はオレ流のコースに変えることができたから楽しかったね。4人地面に寝そべってオーリーで飛ぶとか。もはやミュージカルだよね(笑)。

V: 音楽も自分で決めてましたよね。

A: そう。それでサルーダとケンカしたもん。あいつにMadonnaのカセットテープを借りてたんだけど、大会当日にそれ持ってくるの忘れちゃってさ。サルーダはMadonnaを自分の番でかけたかったんだよ。超怒ってた(笑)。それだけテンションを上げるのに音楽が大切だったんだよ。昔のNSAの大会でもみんな自分のテープかけてさ。だから当時の大会の映像は編集しなくてもいい感じにBGMが入ってるんだよね。

V: スケーターの個性とかキャラが重視されてたんですかね?

A: 時代なんじゃない? 全員スタイルがバラバラじゃん。ロブ・ロスコップみたいなクソみたいなのも覚えてるわけじゃん(笑)。いろいろいたけど全員が際立ってた。

V: '90年代には海外の大会も出てましたよね。当時の大瀧さんは自分のライダーを海外と繋げる活動をしてた印象があります。

A: Oさんはいろいろ細かく説明するタイプじゃなかったから。オレらが知らないうちにやってくれてたことがたくさんあったと思うんだよね。「大会行くぞ」って言うくらいだったから。それで一緒にSFのDeluxeに行ってTGとかジム・シーボーと話して大会のエントリーの手配をしてくれたり。

V: それがBack to the Cityですよね。ちなみに'92年と'93年に出てますよね?

A: 1回目は全然ダメだったんだよ。そのときはYoppiがヒーローだった。Slanderのプロだったしさ。

V: そして翌年の’93年に好成績を残したんですよね。あの大会は当時のトッププロが勢揃いしてたじゃないですか。気負いとかなかったんですか?

A: オレあまり情報入れないんだよね。自分がやりたいから滑ってるだけだから。練習中もずっと滑ってたらMCのデイブ・ダンカンに「アキラ! アキラ!」って言われて。「ヤベぇ。オレの名前すげぇ呼んでんじゃん。オレやっぱイケてんな」って思ってたらOさんに怒鳴られて。「オマエの番じゃねぇ」って。英語わかんねぇからさ(笑)。でも夢中になっちゃうじゃん。

 



V: 同年のヴェニスビーチのPSLの大会では9位でしたよね。

A: あの大会はコンディションが最悪だったよ。路面が悪すぎてさ。予選でサルーダは頭打って、オレも足首グネっちゃって。Oさんがサルーダの頭とオレの足首を冷やしてくれてたら予選通過したってなって。こっちはテンション上がってるからそのまま出たっていう…。

 

気の合う仲間たちでやりたいことを全部補える

V: Big Brotherの3号目に“ヒップでアーリーウープのFs360オーリーとスパインでブラントからのキックフリップ”って紹介されてたのを覚えてますよ。当時のT19はスケートだけじゃなくいろんなストリートカルチャーに精通してましたよね。アンテナが高いというか。

A: まあ、やりたい症候群なんじゃない? なかったら作るとかさ。だから気の合う仲間たちでやりたいことを全部補える。そこは楽しかったね。

V: LOVELYはどうやって始めたんですか?

A: アキームと地元の印刷屋を探してさ。勢いだよね。「雑誌なくねぇ?」って感じで。当時はDictionaryっていうフリーペーパー、BARFOUT!とかRiddimとかくらいしかなかったから。

V: LOVELYは当時の東京のスケートシーンのいいところが凝縮してた印象があります。それ以外に海外だとFuturaとかBobbitoとかいろんなすごい人も出てた。

A: あれはアキームなんだよ。Stretch & Bobbitoのインタビューなんて今考えると異常だよ。時代が早すぎる。LOVELYの後半のロゴもHAZEだからね。それはケニーがずっとLAに住んでてHAZEと仲良かったからなんだけど。

V: 傍から見てて、どうやってあんなすごいコネクションができたのか謎でした。

A: 計算しないで好き勝手やってたから。おかげで仕事としては続いてないけどね。でもそれが良かったのかもしれない。ビジネスだけを考えてやってなかったからみんな生き生きしてたというか。まあ、それがもろいところでもあるんだろうけど。大好きなことを思いきりやってたわけだからピュア度100。濁ってない。楽しかった。

 



V: あと当時はそれぞれが洋服を作ったりもしてて。彰くんもMedorraをやってましたよね。ボーダーを取り入れたり洗練された感じで、俗に言うスケーターっぽいスタイルじゃなかった。

A: そうだね。みんなスケーターっぽい感じがイヤだったんだよね。スケートだけじゃなくて遊びにも行くじゃん。だから大会にもWallabeeを履いて行ったり(笑)。

V: ピストバイクも早い段階から乗ってましたよね。

A: でも一番初めに乗ってたのはジェシーだよ。浅草の人たちもみんな乗ってた。免取りになったタイミングでロードバイクを買ったときにジェシーがシンプルな自転車を乗ってて。それでハマって大会に出たりしてた。トリックもムキになってやってたね。

V: 結局、T19の人たちは流行りの先端にいるっていうか、何かの火付け役になってる。

A: 夢中になれることをとことんやってただけだと思うよ。夢中になれなければみんなやめてるし。それでも商売にしたければできると思うけど、みんな無理して好きじゃないことはやってないと思う。

V: 大瀧さんが亡くなった後、T19はどうなるんですか? 

A: どうなるんだろうね。墓参りする度にOさんにメールして聞いてるけど。返答ないよね(笑)。でもいい加減、自分が乗るチームモデルすらなくなってるから。これまでずっとチームモデルとか自分のシグネチャーとか乗ってるから鬼ワガママになっちゃってて…。他の人の板とか乗れなくてさ。

V: T19が活動再開したら喜ぶ人も多いと思いますけど…。

A: そう言ってくれるのはありがたいけど、実際ちゃんと滑ってるヤツがいないから。オレらが思い切り滑ってたらたぶん無理やりでも復活させてたと思うけどね。ただ自分で乗れる板がなくなっちゃうから。ゲストモデルの話も何個かあるけど…そういうことでもないというか。

 

V: 今はTRAVIESOという洋服を作ってますよね。

A: スペイン語で「わんぱく」って意味。Oさんが一番わんぱくだったっていうオレの思いもあるよ。Oさんはわんぱくすぎでしょ。

V: 生前、大瀧さんの事務所にお邪魔したときに歴代のデッキを全部見せてもらったことがあったんですよ。そのときに「T19は彰が納得できてればいいんだ。それがすべてなんだよ」って言ってました。

A: マジで。ヤベぇな。いろいろあったけど、子供の頃からT19のみんなで一緒にいたから。切っても切れない関係だよ。家族みたいな存在だから。

V: では最後に一言お願いします。

A: 今までの話、全部ウソ(笑)。

 

 

Akira Ozawa
@akirat19

1972年生まれ、東京都出身。'91年にT19からプロ昇格。国内のコンテストを総なめにし、'90年代初頭には海外でも好成績を残す。LOVELY、Medorraを手掛けるなどしながら'90年代の東京のストリートカルチャーを牽引。現在はアパレルブランドTraviesoのディレクターを務めている。

 

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