VANS - SKATE HALF CAB BY ELIJAH BERLE COLLECTION

世界にその名を刻んだ日本人スケーターのパイオニア的存在。野茂英雄がメジャーリーグを席巻する一足先に、スケート界を席巻したもうひとりの“HIDEO”。
──HIDEO SAKURAGI / 桜木英生

2022.01.04

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photo_Yuichi Ohara
Special thanks_(株)VISTAS

VHSMAG(以下V): まずスケートを始めたのはいつですか?

桜木英生(以下S): 14歳の頃ですね。’87か’88年くらいだったかな。それまでずっとサッカーをやってたんだけど、サッカー部の人がチックタックをしてるのを見て「あんなのできんだ」みたいな(笑)。自分の中で部活動とか団体競技というものがしっくり来なかったっていうのもあって、サッカーと両立しながら始めた感じ。中学のひとつ下に津島宣明がいたんだけど、彼の兄貴に一緒に滑ろうって誘われて逗子の運動公園でスケーター仲間を紹介されて。そのときに会ったのが高山 仁とか。自分はまっすぐオーリーすらできなかった時代。ジャンプランプがあったり、トリックができたら「Yeah!」って言うとか教えてもらって。どんどんスケートにのめり込んでいきましたね。後にウルくん(漆間正則)、フォトグラファーのウッチャン(MORiH)、ヤナ(柳町 唯)たちともそこで出会いました。

V: 初めてのスポンサーはどこだったんですか?

S: 国内ではスポンサーがつかなかったんですよ。横須賀にWILD BOY’zっていうショップがあってそこのメンバーにカメちゃん(亀岡祐一)と一緒になったんだけど、スポンサーではないですね。当時はWILD BOY’z主催の大会があって2位になりました。あの頃は、ゲストで川村愉史が来てたし、スーヨン(長谷川好一)もヤバかった。神奈川のスケーターが集結してました。その後から大会は負けまくったけど。

V: 桜木くんはNewTypeの初期メンバーなんですよね?

S: そうです。15歳くらいから毎日のように遅くまで練習してたから「影練の桜木」って呼ばれるようになって(笑)。初めて仲良くなった東京のスケーターがオダッチ(小田浩一)だったんですよ。それで新宿のジャブジャブ池に行くようになって。’89から’91年とか。NewTypeに入ったきっかけはジャブ池ですね。

V: スケートを始めて数年でNewTypeに加入したんですね。展開が早いですよね。

S: 当時はスケートビデオが教科書だったから。2ヵ月ごとに出るビデオを買って何度も観て…。NewTypeは(吉田)徹とルパンが最重要人物。それから(米坂)淳之介とカンポくんが入って、オレが3番目くらいに入ったのかな。それでその夕方にオダッチも続きました。それはオダッチが徹かルパンの指をベロベロ舐めたことがきっかけ(笑)。ちなみにNewTypeに入ってすぐにアメリカに行ったんです。

V: その頃は高校生ですか?

S: 高校を中退して、’91年の17歳の夏にスケートしたくて単身渡米しました。「どうしてもアメリカに行きたいから高校を辞めたい」って親に言ったらめちゃめちゃ怒られて。それで家出しましたね(笑)。なんでアメリカに行きたかったかって…それはスケートビデオですね。日本でも『ラジカルスケボーズ』を観てましたし。クリリンとか川村愉史に憧れて…。吉賀 健とかハッチャキくんも自分にとってインパクトがありました。吉賀 健はArktzの前で日本で初めて360フリップをメイクしたんじゃないかな。

『SHACKLE ME NOT』と『HOKUS POKUS』にヤラれてビスタに行きました

V: ということは本格的にスケートを始めて3年ほどでアメリカに渡ったんですね。初めて行ったのはカリフォルニアのビスタですか?

S: そうです。とりあえずH-Streetの『Shackle Me Not』と『Hokus Pokus』にヤラれてビスタに行きました(笑)。マット・ヘンズリーの360フリップのラインは3000回は観ましたね。それで’91年3月、17歳の頃に観光で1週間だけサンディエゴに行ったんです。そのときに大事件を起こす前のゲーターに会って一緒に滑りました。ステッカーをいっぱいくれて超優しかった。それで同じ年の8月に語学留学でビスタに引っ越しました。

V: また展開が早いですね(笑)。現地に知り合いとかいたんですか?

S: いや、いなかったです。ビスタのホストファミリーの家でホームステイしてました。月$500で朝と夜ごはん付き。でもその家の子供がスケートをしてました。ビスタにはビデオに出てくるスケートスポットが詰まってるんですよ。ホームステイ先は坂の上にあったんですけど、それを下るとすぐにビデオで見たスポットがあって。それで超驚いて。何度も観たビデオに出てる場所は絶対に覚えてたから。あまり遠くまで行くと迷子になると思ったけど、少しずつ範囲を広げて…。英語もわからないから小さい辞書と$5をポケットに入れて。それでスケーターが急に現れたりして…。

V: まさに天国ですね。

S: そう。当時は『This is Not the New H-Street Video』にヤラれてたんですけど、そのビデオで出てくるスポットがビスタにあるんですよ。マット・ヘンズリーが消火栓をオーリーして最後に360フリップのテールグラブをするライン。 ある日プッシュしてたらそのスポットが急に出てきて、それを見た瞬間にもうデッキを手から落としちゃって(笑)。「やべぇ、この場所だ! この場所に来たかったんだ!」みたいな。ひとりで超ストークして1日中そこで滑りましたね。

「1日でも早くアメリカに行かなきゃ」って思ってた

V: ヤバいですね。

S: あとヘンズリーがワンフットの360オーリーのテールグラブをやってる教会にスケーターが集まって、縁石でセッションしたり。とりあえずビスタは小さな街でいろんなスポットが詰まってるんですよ。ダニー・ウェイがいたり、スティーブ・オルテガもビスタにいるし。ブレナンド・ショフェルやマリオ・ルバルカバもいたり。ちなみにスティーブ・オルテガがヘンズリーに360フリップを教えたってビスタのスケーターが言ってました。’91年にヘンズリーは引退しかけてたんですけど、以前からバンドをやっててシカゴに移る話が出てましたね。それでバンド仲間とVespaに乗って教会のスポット前の道路を横切って急に現れたんです。何台も全部Vespaで、暴走族みたいに(笑)。とりあえずそこで滑ってたらヘンズリーが現れて、ビスタのキッズたちが「ヘンズリー!」って手を振ってました。そしたら少ししてバンド仲間と別れてデッキを持って戻ってきたんです。普段はもう滑ってないのに戻ってきてくれて。そのときオレは縁石にノーズブラントスライドをやってたんですけど、ヘンズリーがやってきてタイマンで勝負みたいな感じになって。ヘンズリーはBsノーズブラントのフェイキーアウトしようとして。でもなかなかできない。オレも緊張して全然ダメで(笑)。そしたらヘンズリーは諦めて普通のノーズブラントスライドを簡単にメイク。それでこっち見ながら猿みたいな顔で笑うんですよ(笑)。それから少し滑って気が済んだら帰っていきました。その日は超うれしくて。それから数ヵ月後の夜にもひとりで滑ってたらヘンズリーがVespaに乗って急に現れて、レイトショービットの勝負をしたこともありました。ヘンズリーが現役を引退するっていう話は日本にいる頃から知ってて「1日でも早くアメリカに行かなきゃ」って思ってたから。2回、一緒に滑れてよかったです。

V: ヘンズリーとの絡みは貴重すぎますね。

S: ’90年から’91年頃にかけて、ヘンズリーがバンド仲間と音楽の方に集中してあまり滑らなくなったことでスティーブ・オルテガとかみんなルーズになっちゃって。当時はマリオ・ルバルカバがAlvaからNew School、オルテガとショフェルがH-StreetからPoorhouseに移籍。みんなAlvaやH-Streetから脱退した頃でしたね。’91年にはオルテガがオレをPoorhouseのフロウライダーにしてくれました。マリオやオルテガの家に行って彼らのギターを聴いてから滑りに行ったりもしてました。ヘンズリーがシカゴに引っ越すから、オルテガやマリオたちと一緒にビールをたくさん持って彼のアパートまで送別会しに行ったんですけど…。すでに引っ越した後でスティーブが「ファック」って空になったビールを部屋に投げてましたね。外にヘンズリーの壊れた赤いVespaが置いてあったのが凄く印象的でした。

V: なんかドラマチックですね。

S: フランク・ヒラタとの出会いもすごかったですね。さっき話したヘンズリーのラインのスポットの横にJack in the Boxがあるんですけど、ハンバーガーを食いながら外を眺めてたら滑ってるスケーターがいて。それがフランク・ヒラタだったんです。Powell Peraltaの『Propaganda』のパートを日本で観てたから「ヤベェ!」って。そこから仲良くなりました。ダニー・ウェイともよく遊ぶようになったんですけど、リック・ハワードとかパット・ダフィとかいろんなプロを連れてきてました。オレは日本でもそうでしたけど、アメリカでも夜の11時とか結構遅くまでスーパーマーケットの明るい場所でひとりで練習してたんです。ちょうどオレがいないときにダニー・ウェイがウェイド・スパイヤーを連れてきたらしくて、「なんで今日に限っていねぇんだよ!」って連絡が来たり。ダニーはいつもオレにスラングを言いまくってゲラゲラ笑ってましたね。オレがフライパンみたいな顔をしてるから「パンヘッドだ!」とか…。あいつはハウスパーティが好きだったからよく招待されて遊んでました。丘の上に一軒家があって、下にはでっかいランページがあって。ビスタのスケーターを集めて発売前のPlan Bの1stビデオ『Questionable』の試写会をダニーの家でやったり。その後に凄いものを見せられましたね。ここではとても言えないようなダニーとリック・ハワードの動画。それは超覚えてますね(笑)。いやー、倍返しですね。あと違う日のハウスパーティの朝方に自分の原付きの後ろにダニーを乗せてニケツしてタコスを食いに行くんですけど、その原付が超遅くて。ケン・ブロックも同じタコス屋に歩いて向かってたんですけど、それよりも遅いからケンに爆笑されたり(笑)。

V: そもそもダニー・ウェイとどうやって繋がったんですか?

S: ビスタは小さな街なんですよ。この街でその頃、他の誰よりも時間を費やして滑ってたのがオレだったと思います。オレはスケートの才能がないんですよ。だから「誰よりも滑らなきゃ」って思って夜遅くまで滑ってた。だから、そういう姿を見て共感して仲間にしてくれたんだと思います。ビスタにはVSL(Vista Skate Locals)っていうローカルクルーがあったんですけど、その仲間になれたっていうのがスケートをやっていて一番うれしかったっていうか…。

V: H-Streetに影響されてピンポイントでビスタを目指して海を渡ったわけじゃないですか。それで現地のコミュニティに受け入れられるのは本望ですよね。

S: それが自分の一番やりたかったことだったんです。英語もしゃべれないし、携帯もないし。「このデッキと辞書を持った日本人はなんだ?」って感じだったかもしれないですけど(笑)。

V: 今の時代に海外に行くのとは話が違いますよね。今はSNSがあるから何かしらの情報があるけど、当時は実際に現地に足を運んでゼロから勝負しなければならないですよね。

S: 当時はとりあえず練習したから。トリックもプレッシャーフリップとかレイトショービットとか半年でガラッと変わってたし。そしたら’92年頃にダニーの兄貴のデーモンから「ダニーがヒデオをWorld Industries(以下WI)に入れるって言ってたぞ、本人に聞いてみな」って言われて…。でも自分はPoorhouseからデッキをもらってたから。それでダニーに確認したらWIのオフィスに連れてってくれて。当時はスケート歴まだ3年ですよ。ダニーがスティーブ・ロッコにトリックを見せろって言うから外でフリップトリックを披露したんですよ。そしたら緊張してメイクできなくて「大会があるからそのときに見たい」って言われて。自信なんてなかったけど、ダニーが「大丈夫だ。結果なんて関係ないからとりあえず出ろ」って。とりあえず自分は普段からアールとかやらないから結果はボロボロ。MCは「WIのヒデオ・サクラギ」って初めは紹介してたんだけど、自分があまりにも下手くそだったからロッコが「Plan Bのヒデオ・サクラギ」って変更するように言ったらしくて…。たぶんロッコは自分のWIじゃなくてマイク・タナスキーのPlan Bにオレを押しつけたかったのかも。だから1本目はWIで2本目はPlan B。それが恥ずかしかったですね(笑)。アマでデーウォン・ソンも出てた同じ大会で。それでWIに連絡しづらくなっちゃって…。ダニーからも「なんでWI辞めたんだよ!」って言われて。でもタナスキーとダニーの『Questionable』の撮影に同行したことがありました。一緒にいたクリス・ホイっていうビスタのローカルはダニーのパートで映像が使われたんですよ。自分はその日にトライしていたトリックをメイクできなかったから出られなかったけど。

V: じゃあ、上手くいってたら『Questionable』のダニー・ウェイのパートに1カット出てたかもしれないんですね。それヤバすぎますね。

S: そうなんですよ。自分はスタジアムの外のステアでダニーがスイッチのバリアルフリップをするカットの後ろでマリオとクリスと一緒に座ってるだけですね(笑)。

V: 自分はWIとかPlan Bにガッツリ影響を受けたドンピシャの世代なんです。大会がボロボロでも、スティーブ・ロッコに連絡してWIに加入してたら…って考えたことはないんですか? もしかしたら『New World Order』でパートを残してたかもしれないじゃないですか。

S: まず英語ができなかった。電話でどう話せばいいかわからなかったんです。大会もボロボロだったし、誰も通訳してくれないし。しかも自分はスケート歴がまだ浅くて上手いと思えなかったから。ダニーがとりあえず滑りまくってた自分を気に入ってくれたっていうか…。将来上手くなると思ったのかもしれないですね。ダニーはスカウトするスケーターをよく見てるから。夢のような話だけど、自分は一緒に滑ってるスケーターと同じチームに入りたいし。Poorhouseのフロウとしてスティーブからデッキをもらってたけど、フランク・ヒラタともよく滑るようになって。それでSMAに誘われて…。実は’91年のSIMSの『The 2nd Coming』で自分も1カットだけ出てるんです。ギャップでのレイトショービットなんですけど、気をつけの状態で着地して頭を地面に強打。それで脳震盪を起こして現場にいたフランクは爆笑。フランクは、その映像を何度も再生して笑いこけてるんです。その鬼スラムがなぜかクレジットに使われたっていう。それが初めてスケートビデオに使われた自分の映像です(笑)。

SIMS / The 2nd Coming(04:03〜)

 

V: なるほど。フランク・ヒラタに誘われてSMAに加入したんですね。アメリカで念願の初スポンサーですよね。

S: そう。そのときに初めてスポンサーされたってしっかり認識した感じでしたね。スティーブがデッキをくれたり、ダニーがWIに連れて行ってくれたりしたけど、「これが初めてのスポンサーだ」って感じたのが’92年に加入したSMA。そのときに出たのが『Freedom of Choice』。ジョーイ・サリエルとかイズリエル・フォーブスとかが出てて、自分もクレジットだけど3トリック出てます。

SMA / Freedom of Choice(27:47〜)

 

V: スラムじゃなく本当の意味でビデオに出た作品ですね。

S: このビデオはスカウトされた3日後が締め切りだったからフランクとオーシャンサイドの低い縁石で撮影をしたんです。その日はフランクのインタビュー記事の写真を撮るためにTWSのフォトグラファーのデイブ・スイフトが来てました。オレのことなんか撮ってないと思ってたんだけど、ビスタのキッズに「次のTWSのCheck Outにヒデオが出るぞ」って言われて。’93年の6月号だったかな。『Freedom of Choice』でやったトリックのシークエンス。撮られてるなんて知らなかった。

 

TWS 1993年6月号(Fs Noseslide Fs K-Grind to Bs Fakie Nosegrind)

 

V: なんかいろんな人からのメッセージが掲載されてますね。

S: なんかビスタの仲間のサプライズだったらしくて。

V: ちなみにスティーブ・オルテガのメッセージにある「oki monko」って何ですか?

S: それはアレですよ。ただの下ネタです。日本語で訳すと何て言うんだって聞かれたから教えました。

V: スポンサー欄にSpeed Wheelsとetniesもありますね。TWSの1993年11月号でもSpeed Wheelsのアドが掲載されてますね。

S: それはスイッチのインワード360ヒールフリップのシークエンス。ビデオクリップのキャプチャです。サンタモニカのUCLAのステアで撮ったときのものです。ちょうどCheck Outが出た頃に学校の事情でハンティントンビーチに引っ越さなくちゃいけなくなって。

 

TWS 1993年11月号

 

V: etniesはどういう経緯でついたんですか?

S: それはビスタを離れてからです。New Dealのビデオで観てたハンティントンハイスクールにすごく行きたくて住んだ場所からプッシュで行ったんです。そしたら…すごく遠かった(笑)。2時間くらいプッシュして…。路面も悪いし往復4時間。「毎日こんな生活できないじゃん!」ってなって(笑)。「マジでヤバいとこに来ちゃった」って思ってたらバスがあったんです。バスに乗ったら30分くらい。そこでBlack Labelのジャスティン・オーティズと出会って。当時はSMAからデッキを月3枚もらってたんだけど、ちょうどその時はなくて自分でWIのデッキを買って乗ったんです。ジャスティンがそれを見てWIのライダーだと思ったみたいで。超仲良くなって一緒に住んだんです。それである日、etniesのオーナーのピエール・アンドレがジャスティンのためにサル・バービエかナタス・カウパスどっちか忘れちゃったけどシグネチャーシューズを持って家に来たんです。「ヒデオもチームに入れてもらいなよ」って副社長のドン・ブラウンに頼んでくれたんですけど断られました。ちょうどそのときにNISIさん(“デビルマン西”こと故・西岡昌典)がカリフォルニアに来ててサンディエゴにFine Magazineの撮影で呼ばれたんです。その時に「etniesに入れなかった」って話をしてたら「ピエール知ってるから言っとくよ」って。それで急にドン・ブラウンから電話がかかってきて「NISIから聞いたけど、オマエJapanese Superstarなんだって? これから靴やるから必要なときに来て」って。「いや、オレ日本で全然知られてないよ」って思ったけど(笑)。ちなみにジャスティンと一緒に撮影をするようになって形になったのが、’93年にリリースされたSMA『El Video Numero Tres』なんですよ。これが自分にとって初めてのオフィシャルパートです。

SMA / El Video Numero Tres

 

V: このパートは超絶テクニカルのオンパレードでしたね。

S: スイッチのBsダブルフリップでステアを飛んでるんですけど、あれは毎晩何度も通って撮りましたね。インワード270ヒールフリップのノーズスライドフェイキーはすぐ撮れました。

V: そのトリックは今でもやってる人はいないと思いますよ。スイッチのビッグスピンインワードヒールとかもそうですね。時代の先を行ってましたね。

S: それは…自分には憧れのスケーターがいたんです。H-Streetのマーカス・ウィンダム。毎回、1、2トリックしか映像は出ないんだけど、先駆けたトリックをやってて。’89年にハンドレールでポップショービットの5-0とか。’93年のPlanet Earthの『Animal Farm』でマーカスがスイッチのインワード360ヒールとスイッチのビッグスピンインワードヒールをやってるんですよ。それが本当にかっこよくて真似して練習しました。それがさっき話したSpeed Wheelsのアドになったんですけど、マーカス・ウィンダムがこのトリックを初めてやったんです。オレのSpeed Wheelsのアドはたぶん2番目ですね(笑)。

V: ハンティントンビーチの後はサンノゼにも住んでたんですよね?

S: その前に、学校に全然行かないから高校をクビになっちゃって。それでオレンジカウンティのラグナニゲルに引っ越して高校の勉強に専念して卒業しました。その頃はまだSMAのライダーだったから、ライダーがみんないるサンノゼに行きたくて。ビスタにも戻りたかったけど、SMAは北カリフォルニアのNHS傘下だったから。それでSMAのポール・シャープ、ティム・ブラウチやジェイソン・アダムスと仲良くなって。Thrasherのランス・ダルガートっていうフォトグラファーとも知り合いました。

 

Thrasher 1994年7月号

 

V: SMAのビデオの後もいろいろ出ていましたよね。

S: そうですね。Thrasherの2ndビデオとか『Sponsor Me!』とか。

Thrasher / Sponsor Me!

 

V: Thrasherの3rdビデオの『Sponsor Me!』はサンノゼに住んでいた頃に撮ったものですか?

S: このビデオはサンノゼにいたときですね。サンノゼで知り合った親切なメンドーザ兄弟のとこでホームステイして。’94年かな。この頃はいつもHi-8のビデオカメラを持って動いてたから。当時アメリカに住んでたVHSMAGのKEが撮った映像も使われてます。サンノゼに住んでた頃はスティーブ・キャバレロの家が近かったんですよ。マット・エヴァソールとかサルマン・アガーとか。キャバレロは普段から一緒に滑ったりしてたし、友達になっちゃうと有名人とかそういう認識がなくなるんですよね。でも…やっぱりめちゃくちゃすごい人なんですよ。部屋にあるゴジラのフィギュアをたくさん見せてきたのも覚えてますね。それで1年半サンノゼに住んでまたハンティントンビーチに戻ったんです。というのもSMAがなくなっちゃって。だからThrasherの’94年12月号のCheck Outに出たときにはボードスポンサーがないんです。

 

Thrasher 1994年12月号

 

V: スポンサーはetniesとFoldedって書いてありますね。

S: Foldedはフランクがやっていたアパレル。これはちょうど(岡田)晋が ’94年にPrimeの『Fight Fire with Fire』で出てきた頃ですね。でも自分の前に水野(正雄)さんがZ-Skatesのビデオでしっかりパートを残してるんですよね? 今まで知らなかった。

V: ’91年の『Devastation』ですね。海外のビデオでパートを残した日本人は彼が初だと思います。ただアメリカに拠点を移して現地のスケートコミュニティにどっぷり浸かりながらガッツリ結果を残した日本人スケーターは桜木くんがパイオニアだと思いますね。

 

Thrasher 1996年2月号(Fs 180 Nosegrind)
ヘンズリーと一緒に滑ることができた時点で自分の夢は叶ってた

S: でもまあ、さっきも言ったように自分には才能がなかったんです。だからオレがアメリカで残したものはすべて苦労なんです。才能ないヤツが毎晩練習して、ビデオカメラを持ち歩いて。正直言うと、ヘンズリーと一緒に滑ることができた時点で自分のスケーターとしての夢は叶ってたんですよ。これでスケートをやめてもいいと思えるくらい。スケートビデオに出られるとも思ってなかったし。そしたらSMAでそのチャンスが突然現れて。411VMのetniesのCMやSwitchセクションにも出たり、いろんなスケーターと一緒にビデオに登場したりする自分を観ることができるのがめちゃくちゃ楽しくて。ビデオに出る楽しみを覚えちゃったんですよね。だから自分でビデオカメラを買っていつも持って動いてました。せっかくトリックを覚えたから形に残したかったんですよ。

V: だからこそいろんなビデオに出ることができたんですね。

S: ’94年にアメリカのビデオでようやく晋が出てきたけど、あの頃は「なんでこんなに日本人が出てこないんだろう」って思ってました。自分が出てるのに日本人が全然出てこない。その後に(米坂)淳之介とか(中島)壮一朗とかが出てきた。イシコ(荒畑潤一)はアメリカに来る度に連絡くれましたね。あの時代は代理店がアメリカ行きのフライトを払うようになったり、海外スケーターを頻繁に日本に招いたりしてたのが大きかったと思います。オレの時代は代理店なんてなかったから。親に助けてもらったり、学生ビザで語学学校に行ったり、スケートショップでアルバイトしたり。でも壮一朗のときが一番驚きました。「こんな日本人いるんだ」みたいな。

V: 411VMのWheels of Fortuneですね。オープニングも飾ってた。雑誌にもたくさん出てたし。

S: アメリカではパートをひとつふたつ撮っただけじゃ本当の意味で認められないんです。でも本当にアメリカで「ヤバい」と思わせたのは壮一朗だと思います。2000年初期からアメリカの雑誌に出まくってた。411VMのオープニングはオレも実現できなかったから。

V: でも桜木くんが出たビデオの数はハンパないですよね。SMAのビデオ以外で印象に残ってるものはありますか?

S: ’96年の411VMのNC ShopのIndustryセクションかな。「This is Hideo」って1トリックだけ出てくるんですよ。ハンドレールでのフェイキーバックリップ。このトリックをハンドレールでやったのはオレが世界初だと思います。これは苦労しましたね。当時は411VMのアシスタントエディターと数ヵ月一緒に住んでたんですけど、Industryで使わなかったらオープナーで使ってたかもしれなかったそうです。あと同じ年に出たNC Shopの『Montage』でもパートを残してます。’97年に出たTWSの3作目『Greatest Hits』も4トリック。その翌年とかに晋もTWSで1トリック出てましたね。TWSのビデオは日本人ではオレと晋しか出てないと思います。それくらいTWSのハードルは高かった。’95年のXYZの『Stars and Bars』でもフレンズセクションに出てます。ダニー・ウェイがオーナーのショップですね。

411VM #16 / Industry(19:05〜)

 

NC Shop / Montage

 

TWS / Greatest Hits(01:00〜)

 

Progression VM #3(2:06~)

 

XYZ / Stars and Bars(30:20〜)








V: ’91年にアメリカに渡って、現地のスケートコミュニティでガッツリ動いて結果を残してきたわけですよね。海外に出ていく日本人スケーターのパイオニアとして前例を残した功績は大きいですね。

S: でもアメリカで勝負した日本人は他にもたくさんいたから。ムネ(北島宗和)、ジマ(宮島大介)だって来てたし、飯島健太もずっとアメリカにいたし。(小原)祐一だってずっとアメリカにいてNetwork 17で働きながら411VMに出てた。フォトグラファーのケン・ゴトウは今もSF。さらに今の時代は堀米雄斗がいる。それが脈々と続く日本のスケートのDNAだから。オレだってスケートを始めたときに、クリリン、川村愉史、吉賀 健、ハッチャキくん、川田圭人、江川芳文、尾澤 彰、サルーダくん、長島 亘とかを日本のスケートビデオ、『ラジカルスケボーズ』やNISIさんが作ってたOLLIE Magazineとかで見て滑ってきたから。ひとりじゃ何もできない。ノブ(津島宣明)とか(高山)仁にも出会って逗子の運動公園で一緒に育って…。そういうのってすごく大切じゃないですか。

V: そうですね。ちなみにアメリカでの生活を終えて帰国したのはいつですか?

S: ’95年から6年間はハンティントンビーチとかコスタメサとかにいて、2001年に帰国しました。その年に大学を卒業したんです。バイトとかスケートばかりで全然学校に行ってなかったから。正直、そろそろ日本に帰りたいとも思ってましたし。英語も得意じゃないし、好きなのはスケートだけだったから。さっきも言ったように、ビスタに行ってヘンズリーと滑ることが夢だったし。ただ若いうちにアメリカに行ってなかなか経験できないことを経験できたのはよかったですね。

V: 現在運営しているVISTASという代理店はやはりカリフォルニアの「ビスタ」から取ったんですか?

S: そうですね。楽しくて思い入れが大きかったので。2000年代半ばにスタートしました。日本に帰ってきてからは、どうしてもアメリカの頃の刺激が感じられなくて…。日本の雑誌に出たいとも思わなかったし、ビデオも出たいと思ったのは森田(貴宏)のFESNくらい。仕事をしながらスケートしてると練習する時間がないからどんどん下手になってくし。「メイク率が下がった」とかいう声も周りから聞こえてくるんですよね。そんな時に代理店を始めたらそれが楽しくて(笑)。

V: スペインのNOMADからシグネチャーモデルが出てましたよね。

S: VISTASを始めたときにハブチン(羽太芳夫)にNOMADを教えてもらったんですよ。それでNOMADを取り扱うことになったんですけど、オーナーがオレのアメリカでの活躍を知っててくれて。ヨーロッパには一度も行ったことがないんですけどモデルを出してくれたんです。うれしかったですね。他にも取り扱っているDarkstarやsml. Wheels、Andaleとかも、アメリカでチェット・トーマスやジェームス・クレイグ、ジョーイ・ブレジンスキなどと出会ったことで今に繋がってます。

 

NOMAD / Point of View

 

V: ’91年にアメリカに渡って30年。アメリカでの功績を振り返って思うことはありますか?

S: 何も思わないですね…(笑)。でもやり尽くした感はあります。パートは多くないかもしれないけど26本のビデオに出ることができたし。

単独で行ったほうがいい

V: では最後に。これから海外で勝負しようと思う若いスケーターにアドバイスをお願いします。

S: 絶対に団体で行かない方がいい。確実に単独で行ったほうがいい。日本人のまま、アメリカ人になるっていうか。それが海外で活躍する鍵だと思います。代理店のサポートを得てから海外に行くのもいいけど、ゼロからひとりで戦うのもまた楽しいですよ。

 

Thrasher 2002年12月号(Ss Fs Boardslide)

 

 

Hideo Sakuragi

1973年生まれ。神奈川県逗子市出身。'90年代初頭に単身アメリカに渡ってSMAを始めとするブランドに所属。ThrasherやTWSに登場し合計26本の海外ビデオに出演。アメリカで名を轟かせた日本人スケーターのパイオニア。現在は(株)VISTASを運営。

 

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