1995年にFESNを立ち上げてから今年で30年。日本を拠点にスケートビデオカルチャーを独自の表現で切り拓いてきた森田貴宏。FESNの過去と現在、そして九五館、Z-FLEX、さらには新たに見据える未来について。「止まらないスケート人生」の今を紐解く。
──TAKAHIRO MORITA / 森田貴宏
[ JAPANESE / ENGLISH ]
Photos courtesy of FESN
Poweslide photo_Taku Fukushima
VHSMAG(以下V): 1995年にFESNをスタートして今年で30年。今の心境は?
森田貴宏(以下M): とりあえず30年か…って感じ。あんまり自覚ないけど…。気づくと「オレ50歳になるんだ!?」って感じ(笑)。
V: スタート当初の思い出や、特に強く印象に残っている作品や出来事は?
M: スタート当初は、自分のようにまだスポットライトは当たらないけど、熱い想いを持って、日本中イケてるスケーターはたくさんいる! って思ってたの。日本にもいろんなスタイルのスケーターがいると思ってたし、地方都市の名もなきスケーターたちに凄く興味があった。自分もスケーターとしてつねにかっこよくありたかったから、自分から見てかっこいいと思うスケーターたちと一緒に撮影がしたかったの。それと同時に、オレは当時自分が心酔していたアンダーグラウンドHip-Hopを使ってビデオを作りたかった。オレがビデオ制作を始めた当時、日本が世界に誇るDJ KRUSH旋風もオレたちの地元の近くで起きてた事件だったから、その影響もあって音楽性はDJ KRUSHのような日本が生んだオリジナリティあるものを使うことを夢見てたね。
V: 30年間FESNを続けてきたなかで、自分自身やFESNのスタイルはどのように変化したと思う?
M: FESNを始めた頃、オレは19歳。スケート、特にストリートスケーティングに関して当時、日本はアメリカよりもすべての面で遅れててさ。オレらも当時のアメリカのライダーのように雑誌とか、かっこいいADとか、ビデオに出たい! とかって思ってね。それにはそういうステージを自分たちで作らないとっていう一心で、それなりにみんなで力を合わせて、頑張ってビデオを作ったよね。ちなみにさ、オレは当初、ライダーとしてよりもフィルマーやディレクターとしての立ち位置の方が強かったよね。まあ、そうならずにはいられなかったんだけどね、当時は。ビデオメディア自体も、全国規模でやってるものも少なかったわけだし、待ってたら自分たちにもスポットライトが当たるってわけでもなかった。だからオレがやるしかないよねってなったの。オレの世界観で作るビデオっていうのは、オレ以外ではできないと思ってたし。だから、’95年にFESNを始めたとき、オレはまずライダーであることを一旦退く形でフィルマーになって、ディレクターになったっていう感じだったな。それとFESNの1stビデオカメラは当時Sonyから出てたCCD-VX1 Handycam ProっていうHi8方式のビデオカメラだったんだけどさ、日本のスケートビデオで当時使ってる人はいなかったの。アメリカでさえ、一流のプロダクションしかVX1なんかで撮影してる人はいなかった。FESNはそのVX1を最初に日本のスケートビデオで使ったの。でもそれだけにさ、それ以前のオレは荷物も持たず、身ひとつで自分勝手にスケートしてたけど、そのVX1のおかげでオレのスケートライフは一変したんだよね。毎日、デカいバッグ背負ってスケートしに行かなくちゃいけなくなったんだもん。そりゃ大変だった。だから30年前に、一旦ライダーを退いた自分としては、今現在、現役のライダーとしてオレが存在していることが一番の変化だと思うね(笑)。
V: 当時と今のスケートシーンを比べて、カルチャーや映像表現の変化をどう感じてる?
M: カルチャーとしてはあまり変わってないように思える。だけど映像に関しては、みんなめちゃくちゃ鈍くなったよね。SNSの影響がデカいんだろうけどさ。まぁ、元々’90年代のスケーターが自分たちで作るビデオなんて、トリック連打の所謂「オレイケてるでしょ?」っていう内容を仲間と集って一定期間の思い出としてビデオにしちゃう、言わば「集団自慰相互肯定思い出映像集」みたいなもんだったじゃない? それってビデオに出てるお前らは楽しいかも知れねぇけど、外から見ている人間からしたら、そんなもん見せられてどうすんだよ!? みたいなヤツ(笑)。昔からスケボーの世界じゃそれが当たり前だったんだけどさ、ただ重要なのは、それを商品として売ってるのか、いやそうではなく、販売はしないで仲間たちだけで自分たちのために作ったビデオかによっては、まったくもってそれに対する評価や価値は変わってくるってオレは思ってるのね。だって販売してるものは、お金を払って買ってくれる人のために作ってるわけだから、その相手を満足させられないような「作品」なら、それ以降続けられなくなっていくよね。一方、自分の仲間たちだけで、自分たちに向け、楽しむために作ったビデオは他人の評価なんて関係ないわけじゃん。それはある種の聖域だよ。だから両者はまったく意味が違うの。昔は自分たちでチームを作るか、オウンメディアを作って、ビデオ制作して、それを全国に流通させて、販売するっていうのが、まず最初のスケートビデオのエントリーだった。しかも売った以上は、必ずディスられるから、いろいろと覚悟もするわけじゃん? その点、今はYouTube? インスタ? 結局個人で完結させられるプラットフォーム上でのアウトプットになってきたことで、スケート映像としての深みは変わってきたよね。また目的が販売することなのか? そうではなく自分の仲間とのプライベートビデオなのか? っていうラインが曖昧になってきたことで、それまでの「作品」としてのスケートビデオが、「個人の宣伝」目的のスケートビデオに大きく変わってきたんだと思う。結局、映像に対して、直接的な金銭のやりとりが減ったことで、お客さんの厳しいジャッジも少しずつ減っていった気がするね。観ている人の熱も同時に。それを証拠に、今はみんなスケートビデオ観ててもあまりディスらないもんね。いいビデオならそりゃ凄い! って褒めはするんだろうけど、クソだったら容赦なくディスりまくるのがスケーターにとってのスケートビデオだった気がするね昔は。例えばコンテストだったら必ず上手いヤツが優勝するでしょ? だけどスケートビデオだと、観てる人の趣向によっては「コイツ上手くてもダサいじゃん」ってなっちゃうのよ。それでさらにビデオを観たスケーター同士が、ダサいかダサくないかの談義に発展していくっていう(笑)。まぁ、俯瞰して見てたら、そんなことどうでもいいことなんだけど、ことスケートビデオムーブメントにおいては、それはめちゃくちゃ重要なことだったとオレは思うよね。要は観る人たちの熱量が重要だったから。それとスケーターって人種は基本的に負けず嫌いだからさ、認めたくないのよ(笑)。ビデオに出てるようなヤツは、基本全員ライバルだし、現役でスケートしてるヤツらは、それこそ自分が一番イケてるぜ! ってくらいにスケボー乗ってるでしょ? 他所のヤツを認めるにしても、もっとトータルで観てるんだよ。そいつがいいヤツか? とかっていう要素も重要だったし、とは言えそれだけでもダメだし。だからスケートビデオを観る人は、意見が厳しくていいの。その反面、自分が認めてるスケーターの映像は絶対にディスんなかったじゃん。ね? かわいいでしょ、スケーターって(笑)。だけどもビデオで観て、虫唾が走るくらい嫌いなスタイルのヤツとか、ダサいファッションのヤツ、髪型がダサいヤツ、トリックチョイスがダサいヤツ、テンポがダサいヤツ、動きがダサいヤツ、人の真似ばかりしてるくせにオリジナル気取ってるダサいヤツとかっていうような、自分の趣向と合わないヤツとはなるべく関わらないようにするっていう(笑)。でもたまにそれを凌駕する人間性を持った相手と会ったりすると、改めてスケートってスゲエなぁなんて感動してしまうわけ(笑)。まぁオレが思うに、スケートビデオ観てディスるのも文化だよ。そうやって世界中、お互いの信じるスタイルを武器に切磋琢磨してスケートのレベルを上げてきたんだからさ、オレたちは。だからディスに関しては言い出したら切りがない(笑)。さらにそれを共有できる仲間がいると、さらにエスカレートして行くよね。そうだろ? FATBROSのみんな♥️
V: 最近はストリートスケートからクルーザーへのフォーカスに変わってるけど、そのきっかけや理由は?
M: クルーザーはストリートスケートの真骨頂。どんな悪路でも突き進むし、ブレーキもできる。路面を気にしてとか、騒音を気にしてボード持って歩くようなこともやらなくて済むから、オレには合ってるね。「ストリートスケートからクルーザーへのフォーカスに変わった」って今、言ってたけど、オレも最初はそういう概念があった。トリックするスケートが一番で、クルーザーは二番みたいなね。だけど両方やりながら、素直にスケボーと向き合ってたら、オレはクルーザーが一番になっていったね。だけど今もハードウィールのスケートには普通に乗ってるよ。トリックも友達と滑るときは今もやるし。昔、クルーザーをやり始めて少し経った頃、それまでのハードウィールで街をスケートすると、路面の摩擦が弱く感じてきちゃって、やりたいと思うスケートの動きができなかったの。それでメインボードにもハードウィールからソフトウィールにリセットしたら、すげぇしっくり来た。何よりもスピードも上がったし、プッシュでの行動範囲も劇的に広がった。それにパンピングがメチャクチャ面白くて、やりまくってたらいつの間にかペニーの人になってた(笑)。それと当時、オレから見て、ソフトウィールのアプローチで街をヒットしてるヤツをあまり見たことがなかったの。だったらオレが最初にやってやろうって思って、いろいろやったよ。あとオレは思うんだけどさ、スケボーのウィールはバイクで言うところのエンジンなんだよ。小さいエンジンは軽くて小回りも効くけど、スピードが出ないから狭い範囲でのライディングになっちゃうとか。一方、デカいウィールは重くて小回りは効かないけど、トップスピードのピークが長くて、長距離のライディングでは効率がいいとかね。その点で言うと、当時のオレはもっと排気量のデカいエンジンが欲しくなったって感じだったと思う。




V: なるほど。では高円寺にオープンした九五館という拠点について聞きたいんだけど、あの場所はどのようなコンセプトで作ったの?
M: 中野のオレのお店「FESN laboratory」で働いてるとね、オレの動画からスケボーを始めましたっていう大人のお客さんたちが意外と多いことに気づいたの。それで、そういう大人になってからスケボーを始める人たちって、まず滑る場所や、一緒にスケボーする仲間もまだいないし、もちろん技術を教えてくれる人もいないっていう問題があってさ。オレも自分で練習する場所にはいつも苦労してたし、夏の炎天下での練習なんかもう無理だって思ってた。だったらいつか自分たちの練習場を作って、そういう大人の生徒さんを募集しよう! って考えて。そういう新しい層の受け皿になるコミュニティ作りは今後とても重要になってくると思ってたしね。九五館はそんな新たな層に向けた、特別なスケート施設だと思ってるよ。少人数限定で、子供がいないなか大人だけで楽しむアダルトな空間ね。滑り終わったあと、仲間とカウンターで好きな音楽を聴きながら一杯飲んで、みんなで語らう場所みたいなね。それでもさ、スケートは元々、外に行けばただでできる遊びだったわけじゃない? それを1時間いくらっていうお金をお客さんに払ってもらって運営していくからには、的確なターゲット層に向けて、その料金を凌駕するだけの付加価値を用意して、来てくれたお客さん全員に満足してもらいながら、互いに成長していく関係を築いていくことが最も重要なことでしょ? その関係性に必要だったのが「場所」だった。体育館でもあり、教室でもあり、視聴覚室でもあり、ギャラリーでもあり、クラブでもあり、ライブハウスでもあり、そして最たるは「スケートボードの練習場」っていう。だからオレなりに思う「スケボーの素晴らしさ」を伝える為に「九五館」は必要だった。
V: この拠点を持つことで、FESNの活動やスケートコミュニティとの関わりにどんな変化があった?
M: 九五館のおかげで、FESNのスタッフはみんな日々楽しそうだよ。仕事終わりに、各自練習して帰るみたいな感じとか。オレも混ざって、いきなり熱いセッションになって、撮影が始まっちゃったりとかっていうこともしばしば。オレ自身のこととしては、ファンのみんなにスケートを教えるという新しい仕事もできたり、イベントも毎月やってるしね。それと以前より、仲間と会う機会が増えたな。九五館がある高円寺はオレのリアルな地元なのね。幼稚園、小学校、中学校、高校の同級生もみんな、ちょくちょく九五館に飲みに来てくれたりする。常連のお客さんや、最近になってスケートを始めてくれた初心者のお客さんにとっては、とにかく安心してゆっくり練習できるのが九五館という場所。最近ではプロを目指してるような若いライダーの子たちや、海外からの熱烈なファンのみんなも来てくれるようになった。とにかくそうやってみんなが遊びにきてくれるのはうれしいね。みんな興味があったら是非一度、遊びに来てほしい。20歳以上に限るけど。
V: 今後、この場所を使って挑戦したいプロジェクトや構想は?
M: つい最近、音響機材を整備したよ。先月Z-FLEXのビデオ試写会をやったんだけどさ、自分で言うのも何だけど、これがまたすげえ良かったの。スクリーンも結構デカいのを買って、昔から持ってるプロジェクターを使って映写して。その時は、友達からスピーカーを借りて実際に試写会をやってみたんだけど、久しぶりに試写会っていいなあ! って心底思えた。まぁそのときは15分くらいの短いビデオの試写会だったけど、あの環境なら1時間くらいはいけるなって感じて。スピーカーが借り物だったから、次は自分のが欲しい! ってなって。じゃあ実際に音響機材を集めよう! ってことで、最近集め出したの。ついでにオレも、昔、趣味で好きだったDJをまたやりたいなぁって思って、今はCDJのセットを九五館のカウンター横に設置してるよ。それとFESNはYouTubeのメンバーシップっていうサブスクをやってるんだけど、ついこの前なんかオンラインミーティングでオレのDJをラジオのノリで2時間近く披露したよ。だから音と映像でやりたいことはたくさんあるよ。まずは新しいビデオクリエイターの育成に向け、オンラインで「FESNスケートビデオアカデミー」を開校したいね。


V: FESNと並行してZ-FLEXも運営してるけど、どのような形で関わってるの?
M: Z-FLEXはオレのライダーとしての古巣ね。オレは最初のスポンサー「TOKYO Z PRODUCTS」でプロスケーターになった。今はオレがディレクターとして、チームマネージャー、プロダクトデザイン、販売等ブランドの運営すべてを任せてもらっているよ。
V: Z-FLEXのブランドとしての魅力や、今伝えたいメッセージは?
M: やっぱり、新しいものを作りたければさ、古きを尋ね、なるべく多くのことを学び、研究していくことが大切だとオレは思うんだ。例えば、DJだったらさ、たくさんの音楽を知ることで自分のデータ量は増えるでしょ? そのデータのなかから、そのときのタイミングで最高の選曲をするわけじゃん。データ量が少ないってことはさ、DJの肝になる選択肢が少ないってことでしょ? 圧倒的な情報量を持ったDJと持っていないDJとでは選択肢はおろか、知識の上で大きく差が出るよね。ってことは選曲の深みも、全然違うってことに繋がっていくと思う。もちろんそこにセンスを携えるから、必ずしもどっちがいいとは言えないよ。それでも知識はないよりあった方がいい。Z-FLEXの話で言えば、オレが初めて海外に行ったときに出会ったアメリカ人のプロスケーターがZ-BOYSのライダーだった。彼に触発されて、Z-BOYSのことを深く知っていき、その年の冬にオレは実際にZ-BOYSのライダーになってた。運というか、縁というかね。それ以降、オレはZ-BOYSとして先輩たちの後を追ってきたけど、いつしか現役ではオレが一番上の世代になっちゃった。まさかあの頃、一番下っ端のオレがチームを再構築して、まとめ役になる日が来るとはね。本当に不思議だよ。とにかくZ-FLEXはその長い歴史と、プロダクトにおいては未来のスケートボードを見据えてできたブランドだと思ってる。Z-Roller、エヴァースリック、レールバー、コンケーブなど、現在のスケートボードプロダクトにZ-FLEXが与えてきた影響は計り知れないとオレは思ってるの。オレは運命なのか、宿命なのか、はたまた単なるご縁なのかはわからないけど、先立つ者、みんなのおかげで、世界で一番長く、今も現役でZプロダクトを使い続けているライダーなんだ。それ故に、Zプロダクトに関しては特別な思い入れがある。そしてそれは残念ながら今、現時点では、世界中でオレにしか見えない景色があるのも事実だと思う。だからオレはどうしてもZ-FLEXでやりたいことがあるんだ。とにかく今は、Z-FLEXチームのためにできることを見つけて、全力を尽くしたいと思う。「つねに爪痕を残せ!」はZ-BOYSとして「攻めの哲学」として教わった。「すべては回り、回って次に繋がっていく」という生きる上での心得を、オレはZプロダクトから身をもって教わった。
V: FESNとZ-FLEXの活動は互いにどのような影響を与え合ってると思う?
M: FESNではスケートボードメディア、ショップ、スケートボードプロダクトやウェアなどのアパレルの企画、制作、それとスケートボードイベントなどの企画を主に行なっていて、そこで培ったスキルを使ってZ-FLEXのブランド運営に繋げてる感じ。共にブランドとして長い目で、そして未来を見据えてやることが重要だと思ってるね。FESNは今年で30年、Z-FLEXは来年50年の歴史を持つブランド。Z-FLEX JAPANの櫻井壱世、嘉悦礼音といった若手ライダーたちは日本を飛び越え、今や世界を舞台に戦ってるよ。Z-FLEXの黄金期を再度、世界に示すことができれば、’70年代からのファンや、当時を知る関係者を大いに喜ばせられると思うし、何よりもオレが大好きな「Z-FLEX」の伝説の続きを未来に向けて、繋げて行きたいって思う。ジョージ・ウィルソンやクリス・パスケス、ケント・シャーウッドにジェイ・アダムス。日本じゃTET MORI。今までZ-FLEXに関わった多くの恩人たちのおかげで今もブランドが存在してる。だからこそオレもFESNで学んだすべてを使ってZ-FLEXプロジェクトを現在のライダーたちとともにしっかりと未来に向けてやっていきたい。
V: これからのFESNではどのようなプロジェクトを形にしていきたい?
M: ここ最近ずっと、自分はスケートボードレースに興味を持ってて。つい先日、協会公認のスラロームレースに出場して来たよ。結果は散々だったけど、とてもいい勉強になった。スラロームは凄いスピードでギアが進化していってて、12年前に初めてレースに出場したときとはギアの面で雲泥の差を感じたよ。ただオレがやりたいのは、あくまでもオレが経験してきたストリートスタイルの延長上にあるものをやりたいから、今はコースを含め、レギュレーションなどの企画自体を最初から考えてる最中って感じ。しかしながら自分もまだレース自体の選手でもいたいという欲求もあるからちょっと厄介だね(笑)。 とりあえず先輩たちが運営するスラロームレースで、ある程度の境地まで自分は行ってみたいね。だから最近はレースボードに乗って夜な夜な中野の街を爆走してるのがオレのナイトワークになってきたよ。
V: 今後、FESNとしてスケートコミュニティにどんな影響を与えていきたい?
M: オレはさ、FESNを始めたときから、スケートボードの多様性とローカリズムをテーマにビデオ制作をしてきたのね。今もそれは変わらないし、時代が変わろうとも、つねに先の先をいく存在でありたいと思ってるよ。あらゆるスケートに差別なく、区別なく、オレはオレの考えで進み、つねに挑戦してきたし、それは今も継続中だと思ってる。人と違うことを恐れず、己とは何か? ってことを考え、実践していくライダーが世界中に増えていくことをオレはこれからも期待しているし、そこが一番面白いとも思ってる。「今まで見たことのないもの」にオレとオレのFESNは興味があるの。スケボーって道具を使ってさ、自己表現しなよ! って言われてるにもかかわらず、新たなスケートボードアプローチを想像したり、実践していかないのはとても残念なことだよ。産みの苦しみの先に、新たな世界が開けるんだぜ? オレやお前がやらずに誰がやるんだ?
V: 若い世代のスケーターやクリエイターに向けて、30年間の経験から伝えたいことは?
M: 若いときにこそ、できるだけたくさんの知識と経験を積んでみて欲しいね。それと知らなかったじゃ済まない世界が存在することも、できれば早くに知った方がいい。ちょっとマジな話をするけどさ、オレたち、人間っていうのはさ、みんな誰しも、いつかは死ぬわけじゃん? だったらどれだけドラマチックな人生を生きたかっていう生き方をオレは選びたいと、子供の頃に思ったし、それは今も変わってない。オレは1分1秒も無駄にしないっていう想いが、そういう生き方をさせるわけだよな。それとスケーターはパフォーマーで、クリエイターも同じだと思う。それらは自分以外の第3者のためにモノを表現し、モノを作り出すわけ。言うなれば、まだ見ぬ相手に向けた、至上の愛情表現でしょ。その愛情表現次第で、それ以降の世界が作られていくって考えたら、何ともロマンチックな話だよな? そこにロマンを感じられるかどうかはその人次第だけどさ、オレは未だに「未知なる世界」に夢を抱き、スケボーに「希望」を乗せて走り続けたいんだ。オレという人生でオレは主役だけど、オレ以外の人にとっては、オレはつねに脇役。どうせなら最高の脇役を目指して、これからも自分の人生をプッシュしていきたいね。
今までオレとオレのFESNに叱咤激励を含め、多くを教えてくれた諸先輩方、そして同じく多くの時間を共有してくれた仲間、そしてオレと運命を共にすることを選んでくれた家族、スタッフ、チームメイト、そしてオレたちFESNを支え続けてくれてるファンのみなさまに、今まで本当にありがとうと言いたい。オレとオレのFESNはこれからもこの道を邁進していく所存であります。挑戦こそは我が人生! どうぞみなさま! 今後ともよろしくお願いいたします!
Takahiro Morita
@fesnofficial / @fesnlaboratory / @fesn.kyugokan / @zflexskateboardsjapan
1975年生まれ、東京都出身。1995年にビデオプロダクションFESNを設立し、その革新的なビデオ作品で日本のスケート映像文化を牽引。現在はFESN laboratoryやスケートファシリティ九五館の運営を通じて、スケートボードの新たな可能性を探りながら現役スケーターの姿勢を貫いている。










