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'80年代のスケートムーブメントとともに登場したスケートロック。当時精力的に活動していたテキサス出身のBIG BOYSは正真正銘のスケートロックを体現したバンドである。そのBIG BOYSのオリジナルメンバーでありギタリスト、そして現在はビジュアルアーティストとして活動するティム・カー。スケートボードとパンクロックの創世記からシーンに身を置き、還暦を過ぎた今もなお活動中。元祖スケートロックだけが知るエピソードを聞くことができた。
──TIM KERR

2020.03.02

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Words & Interview_Hiroyuki Wakabayashi
Photo_Yoshiki Suzuki
Special thanks_Golden Age

異色の’80年代テキサススケートシーン

 '40年代後半に誕生し、'70年代にはメジャーなアクティビティとしてアメリカ全土に広まったスケートボードは、サーフィンをルーツに持ちながら'80年代に独自の進化を遂げる。アメリカ各地でシーンは発展したがテキサスのそれは異色であり、'80年代のスケートコミュニティでは一目置かれる存在に。テキサスは素晴らしいスケーターを数多く輩出したが、特にトランジションにおけるレジェンドが際立つ。ジェフ・フリップス、クレイグ・ジョンソン、ジョン“TEX”ギブソン、ケン・フィリオンなど、オリジナルなスタイルを持つ猛者たちの名前を挙げたらキリがない。「テキサススタイル」という呼び名が当時あったほど注目を集めたシーン。テキサスプラント(※)というトリックは、もちろんここで生まれたもの。

(※)テキサスプラント:フットプラントの変形トリック。ボードを持ち替えるなど行程が多いトリックなので、今なおバリエーションが増え続けるオールドトリック。

 クロスオーバーが進んでいた当時のアメリカのアンダーグラウンド音楽シーンでも重要なバンドにはテキサス出身者が数多く在籍。Dicks、MDC、Butthole Surfers、そしてBig Boys。これら唯一無二のサウンドスタイル、強いメッセージを持つバンドが活発に活動していた。当時のテキサスはKKKの施設が通り沿いに平然とあるほど人種差別的思想が強く残る町。人種差別のみならず保守的な風潮の中に、あえてゲイとわかるような衣装でステージに立つミュージシャンがテキサスの重要バンドの中に存在していた。我が道を行く自由な考え方のテキサススタイルは今なお魅力的である。

 

 

 Big Boysは'76年にテキサス州オースティンで結成されたバンドで、パンク、ハードコアにブルースやファンクを取り入れたクロスオーバーサウンドを作り上げていた。スケートロックという言葉はBig Boysが生み出したものであり、オリジナルメンバーでギタリストのティム・カーはシンガーのランディ“ビスケット”ターナーとともにテキサスパンク、スケートロックシーンの看板的存在。なお、Big BoysのビスケットとDicksのシンガーのゲイリーはシーンの人気者で、当時から自分がゲイということを隠さずパフォーマンスしたミュージシャンとしても知られている。

謎に包まれたテキサスシーン

 テキサスのスケートシーンには独特な雰囲気があり、Zorlacはハードコアパンクシーンと距離が近かったテキサスならではのブランドだ。アンダーグラウンド色が強く、インターネットがまだないためThrasherやTWSの誌面で得られる情報以外は日本に入ってこなかった時代。たまに耳にするのは都市伝説的な噂話。「ほとんどのテキサススケーターはドレッドロックだ」とか「他の土地から来たスケーターや有色人種のスケーターは差別を受ける」など。さらには「当時日本に在住していたアメリカ人のスケーターがテキサスを訪れた際、ローカルにドレッドロックを刈り上げられた」なんて話も。今考えれば無茶苦茶だが、部分的には真実だと思えたりもする。かなりアンダーグラウンドなシーンであったため、本当の情報を得るには実際に現地に足を運び、ローカルやシーンの中心人物たちと仲良くなるしかなかった。それほどテキサスは謎に包まれた魅力的なシーンであった。あれから30年の時を経て、テキサスシーン、もといスケート、パンクシーンの重要人物であるBig Boysのティム・カーに話を聞けるとは当時の自分は夢にも思っていなかった。
 


 
 今回の取材はティム・カーが中心となって行われたグループ展“Tim Kerr and Friends”の会場である原宿Henry Hauzで行われた。忙しい日程の中、終止笑顔で語ってくれたティム氏、そして無理なお願いにも快く協力してくれたTim Kerr and FriendsのHi-dutch氏、Grain On Skateboards氏、鈴木嘉樹氏、花井祐介氏に心から感謝します。

 取材当日は、同時期に来日していたPUSHEAD(※)がUSUGROWとともに来場したようで、久しぶりの再会を喜んでいた。インタビュー後にJaks(※)のメンバーでもあるTimはJaksの話題に触れた後、「日本人にJaksメンバーがいるんだけど知ってるか?」と聞かれた。「岐阜に住む友達だよ」と私が答えるとうれしそうな顔をしていたのが印象的だった。ひとつだけ悔やまれるのが、ティムと同行していたベス夫人に話を聞かなかったこと。彼女もまたテキサスシーンの生き証人のひとりで、初期のThrasherに手紙を書いたことがあったそう。

(※)PUSHEAD:ワールドワイドに活動する、主に点描でスカルを描くアーティスト。音楽シーンでの人気は特に絶大。Zorlacのグラフィックの多くを手掛けており、'80年代に活躍したハードコアバンドSeptic Deathのシンガー/スケーター。
(※)Jaks:'70年代後半にSFで結成。Absolute Musicをスローガンに、音楽シーンにスタンスの近いスケートチーム。数々の大物レジェンドがメンバーでもある。

 

VHSMAG(以下V): まずは自己紹介をお願いします。

ティム・カー(以下T): 名前はティム・カー。テキサス州オースティン在住。サーフィンやスケートをしながら育って、音楽やアートを始めたのは小学生の頃。

V: スケートとパンク、'80年代のテキサスのシーンについて教えてください。

T: パンクよりスケートの方が先だったね。Cadillac Wheelsからウレタン製のウィールが出始めたのが'74年。オースティンにあるテキサス大学に通っている頃だった。オースティンはテキサスのど真ん中。ビーチまで車で4時間くらいかかるからいつでもサーフィンができる環境じゃなかった。そんな頃、ちょうどウレタン製のウィールが出たからスケートを始めたんだ。そうして仲間と一緒に滑るようになった。'74年か'75年のことだ。誰もパンピングのやり方すら知らなかった時代。ただただ滑っていた。よく行っていたスポットはジョージタウンにあるディッチ。テキサスやニューメキシコには最高のディッチがあったんだ。

V: 当時の有名なディッチは?

T: プリューガービル。みんなでよくそこで一緒にスケートしていたんだけど、その頃にパンピングを覚えたんだ。そしてその後に仲間の家のバックヤードにランプを作った。でも何も知らなかったからフラットの部分を作らなかったんだ。高さ9フィート(約2.7m)くらいのランプ。子供から大人まで年齢関係なくみんなで滑っていた。当時はスケートがまったくクールじゃなかった時代。世間一般からすれば宇宙人のような存在。車からものを投げつけられたり罵倒されたりもした。パンクロックも同じだった。

V: 誰も理解できなかった時代だね。

T: そう。そしてバストロップにプールがあることを知ったんだ。みんなSkateboarderを読んでいたからね。みんな細いデッキやプールに注目するようになった。バストロップのプールは深さ14フィート。そして'76年にケガをしたんだ。今でも左の腕に傷があるんだけど、そのプールの上の部分のデスボックスで詰まってスラム。だから今でも腕にプレートが入っているんだよね。

昔はそれぞれ自由にやりたいことをやっていた。オレらはすべてがDIYだった

V: その後、シーンはどのように進化したの?

T: '77年か'78年頃にスティーブ・オルソンやデュエイン・ピータースが出てきたんだ。それでみんなこぞってクレイジーな髪形にし始めた。ヤツらがパンクを取り入れたスケーターの走りだった。でも当時のパンクはスケートと一緒でいろんなルールができたりしていて…。始まった頃はそうじゃなかったのに。昔はそれぞれ自由にやりたいことをやっていたんだよ。オレらはすべてがDIYだった。

V: Zorlacについては?

T: すでにスタートしていたよ。Zorlacのファウンダーはダラスのジェフ・ニュートン。母親のガレージでスタートしたブランドだった。クレイグ・ジョンソン、ジェフ・フィリップス、ダン・ウィルキンス…。ジョン・ギブソンはヒューストン出身だけど、ダラス周辺のエリアのヤツらがZorlacのメインライダーだった。当時はコンテストが多かったけど、クレイグたちは一切コンテストに出なかった。それでもヤツらのヤバさは誰もが知っていた。面白いことに当時のテキサスはオレくらいでかいスケーターが多かったんだ。クレイグたちもでかかった。当時は珍しいことだったんだよ。それもテキサスの伝説のひとつ。でかいスケーターがでかいエアーをするっていう。

 

 

V: パンクとの出会いは?

T: オースティンにRaul'sっていう箱があったんだ。オースティン初のパンククラブ。妻のベス、クリス(・ゲイツ)と一緒にBattle of the Bandsを観に行ったときに初めてパンクのようなものと出会った。でも音楽は二の次だった。一番クールだと思ったのは境界線がなかったこと。バンドと観客が一緒になっていた。今のように境界線が存在しなかったんだ。観客のみんながバンドをやっていたり、Zineを作っていたり、写真を撮っていたり…みんな何かをやっていた。本当に素晴らしいコミュニティだった。それが最高だったんだ。

V: 素晴らしいね。

T: ある日、クリスとプリューガービルで滑っていたんだ。そしてふたりでこう話し合った。「Raul'sでいつかプレイしようぜ。一度トライしてみよう」って。オレもクリスもギターを弾いていたからね。クリスはオレより10歳ほど下だったかな。ヤツはAC/DCやTed Nugentといった、Junkyard後期のようなサウンドを弾いていた。後にクリスはJunkyardのメンバーになるんだけどね。一方でオレはJohn Martinのようにクレイジーなアコースティックチューン。だからコインをトスしてどっちがベース担当にするか決めようってことになった。ビスケット(ランディ・ターナー)は歌がうまいしスケートもするからボーカルにしようと決めた。スケートロックはまだ存在すらしていなかった。ただみんなスケート仲間だっただけ。というわけでRaul'sでプレイできるようにがんばることにしたんだ。でも初めてプレイしたのはRaul'sじゃなかった。というのも、ビスケットが個性の塊で有名だったこともあって、まだ2回ほどしか練習していない段階でオファーが入ったんだ。「パーティでプレイしないか? バンド名は?」って。3つほどバンド名の候補があったんだけど、とっさに「Big Boys」って答えた。'79年頃の話でスケートと同じくパンクのシーンもかなり小さかった。
 


 

V: ただプレイして、スケートをして、いろんなものをクリエイトしていたんだね。

T: そう。そして'81年にThrasherが創刊された。最初の2号はZineだった。質素な紙でできたZineだったんだよ。ということでThrasherができて、プレイするためにSFに行こうってことになった。でもオレらは「古着屋に行ってスケートをしよう。ライブもあるけどとりあえずスケートしよう」って感じだった。今じゃ想像したり理解できないかもしれないけど、当時はラジオでパンクがかかることなんて絶対になかった。パンクを取り上げる雑誌もなかった。「音楽で金を稼ごう!」って風潮が始まったのは'85年から。スケートも同じ。というわけでベスがThrasher宛に手紙を書いたんだ。ただのZineだったからね。「SFに行くから一緒にスケートしよう。いいディッチはあるか?」って。そうしたら返事が届いて会うことになった。駐車場でケビン・J・サッチャー(※)、MoFo(※)、リック・ブラックハートと一緒に撮った写真も残っている。そしてMoFoがオレらを取材したいと言ったんだ。でも通常のインタビューじゃなくて、漫画とテキストを組み合わせたような記事。そうしてWild Riders and Boardzというコーナーでオレらの記事が掲載された。この漫画はフィクションなんだけど、その中でオレらはペットのアルマジロを飼っていてスケートロックをプレイするんだ。オレらはみんなスケーターで音楽をやっていた。オレらがその走りだったんだよ。JFAは「オレらはスケートロックバンドだ!」って最初に公言したからヤツらがその走りのように思われているけどね。

(※)ケビン・J・サッチャー:Thrasherの初代編集長。
(※)MoFo:Thrasherに数多くの写真を提供したフォトグラファー。バンドDrunk Injunsのシンガーでもある。Big Boysへのリスペクトは絶大で、数年前にBig Boysの代表曲“Red/Green”をDrunk Injunsでカバーしている。

スケートロックとはアティチュード。ルールもなくてハートから出てくるもの。誠実なもの

V: ずばりスケートロックとはどんなもの?

T: まあ、アティチュードだろうね。ルールもなくてハートから出てくるもの。誠実なもの。他の人がどう捉えているかわからないけどオレにとってはそういう感じかな。今じゃスケートロックの定義が少し変わってきているような気もするけどね。「特定のファッションでVansを履かなきゃならない」って感じで…。ただスケートをしてりゃいいんだ。だからオレにとってスケートロックとはスケーターがプレイする音楽かな。

V: ZorlacからリリースされたBig Boysのデッキについては?

T: すべてはファウンダーのジェフのおかげ。Zorlacっていう名前の由来を聞いたことはあるかな? 昔ジェフはある年上のスケーターとよく滑っていたんだ。ちょっとクレイジーな変わったヤツで、いつも「惑星Zorlacからやってきた」って言っていた。だからジェフがブランドを始めるときにZorlacって名づけたんだ。ちなみにBig BoysのデッキのボードグラフィックはPusheadが描いたって思われているけどそれは違う。ビスケットがスケルトンを描いて、クリスがハートを描いた。昔はみんなよくデッキに絵を描いていたから。そしてオレが聖なるハートの下にDogtownのグラフィックのようなバナーとラットを描いたんだ。だから3人の共作ってわけ。

V: 今でもスケートはしているの?

T: 今でもダウンヒルをしたり、ディッチやバンクで滑っているよ。ただパークのセクションには特定の角度があって、スライドしながらスムースにロールインできないからイヤなんだよね。みんなオーリーとかでぶっ飛びたいからそうなっているのはわかるけど…。

V: ティムにとってスケートとは?

T: 空気のような存在。息をするのと同じ。ただ自然にやっているもの。アート、音楽、スケート、サーフィン…どれもそうだと思う。「空気についてどう思う?」って聞いているのと同じだよ。

V: ではスケートがオリンピックの競技になったことについては?

T: スケートもパンクも初期の時代から変わっていないと思う。MinutemenやMinor Threatのようにファンのためにプレイするバンドもいれば、「有名になって金儲けしようぜ」って連中もいる。スケートも同じでふたつの違った考え方を持つ人がいると思う。いつからスケーターがブランドにフックアップされるためにスマホで撮影し始めたのかわからないけど、オレにとってスケートはそのようなものではない。スケートは純粋にやるもの。スポーツじゃない。得点もない。音楽も同じで誰にどう思われても構わない。ただやりたいからやっているだけだ。ただ、スケートが世間に受け入れられるようになったのは興味深いことだね。だって特にアメリカではついこの間までそうじゃなかったんだから。TVとかで問題を抱える子供やドラッグ中毒の若者を描く際、その人物は決まってスケートボードを持っていた。オレにしてみれば「ファックユー! 違うだろ!」って感じだった。オリンピック競技になったことでそういうイメージが変わったっていうのはあるよね。

V: 今後の予定は?

T: 一歩ずつ前に進んでいくだけ。オープンマインドで次に何が起きるかわからないようなことに挑戦したい。このインタビューをきっかけに何かを始める人がひとりでも増えればうれしいね。

V: では最後に日本のスケーターに一言。

T: ただ楽しめばいい。やりたいことをやれ。みんな自分を表現するべきだ。自分なりのやり方で、人のマネをせず絵を描き、誰のマネもせずに滑ればいい。自分のやり方でいい。それで楽しいと思えればいいんだよ。笑顔になれたら最高じゃないか。
 

 

ティム・カー / Tim Kerr
@movetk

1956年テキサス州オースティン生まれ。現在もオースティン在住。1976年に結成された元祖スケートロックバンド、The Big Boysのギタリスト。'80年代にパンク、ハードコア、ファンクなどのクロスオーバーサウンドのパイオニアとして活躍し、現在はビジュアルアーティストとして活動。ペインターとしての評価も高く、Krookedをはじめとしたスケートブランドのデッキグラフィックなども担当。現在はTim Kerr & Friendsというグループ展を各地で開催している。

www.timkerr.net/home.htm

 

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