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元祖リズムゲーム、パラッパラッパーの2作目のアニメーションを担当したスケーターのスティーヴン・アンリ・マーシャル。'70年代終わりから現在まで、彼の経歴を辿りながら今も色褪せることのない特別なスケートの記憶を掘り起こす。
──ANRI

2019.10.12

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photo_Junpei Ishikawa (Portrait)
Photos Courtesy of Stephen Anri Marshall

VHSMAG(以下V): スケートを始めたのは?

アンリ(以下A): '70年代終わり。7、8歳の頃にプラスチックのバナナボードをヤードセールで手に入れたのがきっかけ。近所の子供たちも同じようなデッキを持っていて誰もプロモデルの存在すら知らなかった。当時はニーボーディングで近所をプッシュしていただけ。デッキに座って大きな水たまりに突っ込んだり、何も気にしていなかった。ベアリングはボロボロになっていたと思うけど、そういう遊びを2年くらいやっていたかな。

V: カリフォルニアのどこで育ったの?

A: 北部のユーレカ。

V: 本格的にスケートにハマったのは?

A: 本格的なデッキを見たときのことを実は今でも覚えているんだ。近所を歩いているとスケーターを見かけたんだ。歩道を滑りながらバンク状のドライブウェイをヒットしながらアーリーグラブで車道に飛び出したりしていた。「ヤバい!」って思ったあの瞬間は今もはっきり覚えている。

V: どんなセットアップだったか覚えている?

A: Powell Peraltaのネオングリーンのアラン・ゲルファンド。'81年だった。「ヤバい。これだ!」って思った。それで新聞配達を半年やって金を貯めたんだ。すると母親が「差額を払ってあげる」て言ってくれてスケートボードを買いに行った。スケートショップというより…どちらかと言えばフィッシングショップのような店だったかな。そこで始めて本格的なスケートボードを買ったんだ。

当時流行っていたことをすべてやめて100%スケートに専念するようになった

V: 誰でも初めてのデッキは覚えているものだよね。

A: Santa Cruzのスティーブ・オルソンにACS 651のトラック、そしてCity Streetのウィール。 スキッドプレート、ノーズバンパー、コーパー、ライザーもついていた。グリップテープは目が荒くてザラザラ。

V: 初めてのトリックは覚えている?

A: たぶんカービングや歩道の段差を降りることかな。昔のことすぎて覚えていないね。オーリーやキックフリップ、トランジションも自然な流れで覚えたから。毎日滑っていただけ。それからはバスケ、サッカー、アメフト、ブレイクダンスとかすべてやめた。当時流行っていたことをすべてやめて100%スケートに専念するようになったんだ。

V: カリフォルニアにいればプロスケーターと出会うチャンスが他の人よりも多かったんじゃない?

A: そんなことはなかったね。でも'84年か'85年の夏にサンタクルーズに行ったときにビーチでスティーブ・キャバレロを見たことはある。オレらはみんなスケーターで彼が誰か知っていたから「話しかけようぜ!」って感じだった。すると年上の友達がクールな感じでこう言ったんだ。「いやいや、ダメでしょ。話してくれないよ。オマエらは若すぎるから」。そうしてキャバレロが近くまで来るまで待ってからヤツはひとりで駆け寄って話しかけたんだ。オレらは置いてけぼり。「なんだそれ?」って感じだったけど思い返すと面白いよね。そんなことはあったけど、北カリフォルニアに住んでいてプロスケーターと会う機会なんてなかなかなかった。

V: コンテストはどう?

A: 友達5人とオレゴン州ユージーンのストリートコンテストに行ったことがある。'86年だったかな。Thrasherもこのコンテストの記事を掲載していた。'87年1月号でジム・シーボーがカバーだった。ずっと雨が降っていた。8、9時間、地元の小さな街から車で北上した場所。ユージーンの郊外でウィラメットっていう街だったんだけど、わかりやすくユージーンのコンテストってみんな言っていた。雑誌で見るプロがたくさんいたんだ。





V: その時代にそうそうたるプロを見れたのは最高だね。そのような経験は他にもあったの?

A: '80年代終わりに友達が進学するためにサンタバーバラに引っ越してPowell Peraltaのスタッフや現地のローカルと繋がったんだ。フランキー・ヒルやPowell Peraltaのチームマネージャーとも仲良くなっていた。ルディ・ジョンソン、ガイ・マリアーノ、パウロ・ディアズ、ゲイブリエル・ロドリゲスという若手のマネージャーだった。まさに『Ban This』が出たばかりで、それに出ていた若い才能たち。

V: 俗に言うLAボーイズだよね。彼らに会うことはできたの?

A: サンタバーバラに移った友達がオレらの誰かに連絡して「Powell Peraltaの連中が来るぞ!」って教えてくれたんだ。彼らはツアーに出ていてユーレカに寄っただけだったと思う。ウェンディーズの駐車場だったかもしれない。食事のために寄っただけだった。どうにかして彼らが来る場所を突き止めて挨拶だけしに行ったんだ。会ったのもたかが10分や15分だったと思う。スケートもせず、ただハングアウトして話しただけ。地元の駐車場で一瞬だけ会ったのを覚えている。

V: トミー・ゲレロの兄貴のトニーからデッキをもらったことがあるんだよね? それはユージーンのコンテストでのこと?

A: そうだね。トニー・ゲレロがコンテストに出場していたんだ。最近トミーに聞いたんだけど、その日トニーは体調が悪くて出場しないはずだったらしい。結局出場したんだけど結果は良くなかった。最後の方はやる気もなくなっていたようだった。そしてデッキを投げたんだけど、それがオレの手元に飛んできたんだ。周りにたくさん人がいたのにダイレクトにオレに向かって投げたんだよ。周りのヤツと取り合う必要もなかった。「ほらよ」って言ってオレにくれたんだ。2、3mしか離れていなかった。そのデッキは数日乗ったんだけど、そのままの状態で保管することにした。トラックやウィールは取り外して使ったけどデッキはそのまま保管した。マジでうれしかったんだ。トニーは「これはオレのシェイプなんだ」って言っていた。当時はちょうどノーズが大きくなり始めた頃で、ウォールライドをするとノーズの端がすぐにチップしてしまう。だからノーズの形をアシンメトリーにしていた。

V: これまで乗ったデッキは全部保管しているの?

A: いや、半分以下しかない。1/3か1/4くらいかな。今も実家に保管してある。

V: 昔のデッキを見ると当時の記憶が蘇るよね。これまで乗ったデッキで思い入れのあるものは?

A: Slasherは何枚か乗ったね。ナタスのモデルもシェイプが好きだったから何枚か乗っていた。Santa CruzやSMAが多かったかな。ジェフ・ケンダルのストリートモデルも2枚乗った。グラフィティのグラフィックのやつ。エリック・ドレッセンのフォアローゼス。ロスコップのデッキはあまり好きじゃなかったけど大きな目のグラフィックのやつは持っていた。大きなポセイドンのグラフィックのジェイソン・ジェシーのミニも乗っていた。刀のグラフィックのトミー・ゲレロも2枚、普通の7プライとボーナイトの両方。Uncle Wigglyも好きだったな。これはスケートを始めて2枚目に買ったデッキ。Uncle Wigglyはトニー・マグナッソンがH-Streetを始める前にやっていたブランドだったと思う。

V: Uncle Wigglyは聞いたことがなかった。

A: '87年に夏に友達とLAに遊びに行ったときにアルハンブラでランス・マウンテンと会ったことがあった。リックっていう友達を通してランスと会ったんだ。リックは'80年代半ばにオレらの地元に越してきてよくうちのハーフパイプとミニランプで滑っていた。オレらがLAにいるときにちょうどリックも里帰りしていたんだ。そして「連絡してくれ」って言いながら自宅の住所を教えてくれた。そして「オレの家に来たらランスの家に連れて行ってやる」って言うんだ。リックはランスの2軒隣りに住んでいた。ランスと同じ通りで育ったってわけ。坂の途中にある家。Powell Peraltaの古い作品を観るとわかる。

V: Same OldのYouTubeにボビー・プーリオがランスの昔の家を訪ねるビデオが投稿されていたよね。

 


 
A: そう。ということでリックの家に行ったんだ。ヤツは「これがランスの住所。坂を上ってドアベルを鳴らせばいい」って。リックは一緒に来なかったと思う。ドアベルを鳴らすと奥さん(※当時はまだ彼女だったかもしれない)のイヴェットが出てきた。「ランスいる?」って聞くとオレらを見て「まだ朝早いわよ」とか言ってドアを閉めたんだ。そこでえらい長い時間待ったような気がする。実際は5分や10分、もしかしたらそんなに長くなかったかもしれない。リックの家に戻って「ランスはいなかった」とか「ランスは忙しかった」とか言おうと思って帰ろうとしたら、ドアが開いてランスが出てきた。上半身裸にショーツ姿でバナナを食べている。そして「リックの友達?」って聞かれた。「そう。リックの家から歩いてきたんだ。バックヤードランプを見せてもらえって言うから来てみた」って答えたよ。すると「いいよ。裏庭にどうぞ」って。そして「ゲートを抜けて小道を降りればいい。その先にランプがあるから」って。オレらは全員デッキを持っていたんだけど、パッドは持っていなかったと思う…その辺はよく覚えていない。ただランスのランプを見たかったんだ。

V: 最高だね。

A: そうして裏庭に回ってランプを見ると、オレらが滑り慣れたものよりも遥かにでかかった。オレのハーフパイプは高さ8、9フィートに1フットのバーチカル。8フィートのトランジションだった。超タイトで当時にしては短い作り。ランスのランプは滑ったけど、誰もドロップインやロールインをしなかったと思う。とりあえずでかかったから、下から上がってキックターンするだけ。オレはその旅の途中のサンタアナで足首を捻ってちゃんと滑れなかったけど、パンピングやキックターンくらいはできた。それだけで満足だった。午後になるとすごく暑かったのを覚えている。午後1時か2時頃。オレらはただハングアウトしていた。するとランスの仲間が続々現れたんだ。

V: 誰が来たか覚えている?

A: もちろんランスはいたけど、マイク・スミスもいたと思う。クリス・ボースト、レイ・アンダーヒル。Powell Peraltaのライダーもあとふたりほど。あのランプをちゃんと滑れる連中ばかり。みんなランプ用のでかいデッキに65か66mmのウィールだった。しかも何もプリントされていないプロトタイプ。Powell Peraltaのロゴくらいは入っていたかもしれないけど商品化されていない段階のウィール。当時のランプ用のウィールはでかくて細かったんだ。もちろん高めのライザーパッド付き。クリス・ボーストのデッキは大きな穴がくり抜かれてあった。ちょうどトラックをつける中心の場所に2インチほどの穴。「なんでデッキに穴を空けたの?」って聞くと「軽くしたいから」とのことだった。当時はすべてが大きく重くなっていった時代だったから。だからデッキに穴を空けていたんだ。間近で空高く飛ぶヤツらの姿を見れたのは素晴らしかった。グラント・ブリテンもいて写真を撮っていたと思う。

V: ヤバいね。ちなみにアンリくんは昔にConsolidatedのデザインをしたことがあるんだよね?

A: モイシャ・ブレンマンって幼馴染がアートを学ぶためにサンタバーバラに引っ越したんだ。さっき話したPowell Peraltaのチームマネージャーの知り合い。とにかくヤツは学校を卒業してNHS のアートデパートメントで働き始めた。そして2年後の'92年にスティーブ・キーナンとスティーブ “バード” ガイシンガーと一緒にNHSを辞めてConsolidatedを始めた。モイシャがキューブやデアデビルといったConsolidated初期のアートワークのオリジナルデザインを手掛けたんだ。立ち上げ時の専属アーティストだったから。

V: なるほど。

A: そしてある日、「グラフィックを描いてみないか?」って聞かれた。オレが描く絵は変なものばかりだったんだけど、一度見せることにした。「脳みそのキューブを描いたんだ」って見せたら「クールだね。使える」って。その場で絵の写真を撮ったのかスキャンしたのか覚えていないけど、モイシャがその絵をスマートモンキーのロゴに組み込んだんだ。まだそのTシャツを持っている。あのロゴはデッキにもなっていたかもしれない。ステッカーがあったのは覚えているけど。




V: それはすごい。当時はまだユーレカにいたの?

A: いや、SFで学校に通っていた。スケートはたまにする感じ。SFにいたのは2000年まで。

V: SFでは何をしていたの?

A: 大学でCGやアニメーションを専攻していた。映像やアニメーションだね。ゲームの制作会社に友達がいたから仕事をオファーされるようになった。2週間毎日そこに通って3D Studio Maxというソフトウェアを使っていた。すると「上達したね。もうゲームのアニメーションをできるだろう」って言われて雇われることになったんだ。それがゲームアニメーションに携わるようになったきっかけ。それからゲーム関連の仕事をするようになった。

オレが入ったのはパラッパラッパー第2弾

V: 日本に来たのは?

A: 母親が日本人だから親戚に会うためにたまに日本に来ていた。そして'98年にひとりで来ていろいろ見たときに「日本語をもう少し勉強してCGのスキルさえ身につければ東京で職を見つけられるかもしれない」と思ったんだ。これはインターネットが広まり出した初期の時代。いろいろ探したんだけどオンラインに英語の求人情報なんてほとんどなかった。'98年から'00年まで、オンラインでサーチしたりジャパンタウンの紀伊國屋でCG雑誌に掲載されたアニメーションやゲーム制作会社の連絡先を探したりしていた。当時は日本語がほとんどわからなかったけど、制作会社がどんなものを作っているかくらいはわかったから。

V: ということはSFから制作会社に連絡したの?

A: 履歴書、デモリール、カバーレターを送ったんだ。オンラインで経歴を説明して応募したい旨を伝えた。'00年の秋に東京に来ていくつか面接を受けた。すると第一候補の制作会社から「採用しよう。2週間後に始められるか?」って聞かれたんだ。「SFに戻って家を引き払わないと」って感じだった。そして4週間後に始められると伝えたんだ。2週間だと不安だったからね。結局1ヵ月ですべてを済ませたけど。5週間くらいだったかな。

V: 急展開だね…。でもそれでパラッパラッパーに携わるようになったんだよね?

A: そうなんだ。オレが入ったのはパラッパラッパーの第2弾。キャラクターとムービーのアニメーションを担当した。その後はDwangoでCMをいくつか手掛けた。曲を使ってミュージックビデオも作った。そうして最終的にSonyで働くようになったんだ。

V: 今もSonyで働いているの?

A: もう16年になる。これまでで一番長く在籍した職場だね。
 


 

V: またトニー・ゲレロからデッキをもらった話に戻りたいんだけど、最近弟のトミー・ゲレロと東京で会って話したって言っていたよね?

A: 比較的最近の話だね。まず3年ほど前に東京のライブハウスでトミーのワンマンショーがあったんだけど、その前日の夜に品川駅で偶然会ったんだ。「トミー・ゲレロでしょ? はじめまして」って挨拶をしたよ。トミーは彼女と一緒にいたんだけど、その子がオレの大学時代の友達の親友だったんだ。共通の友人がいたからあれこれ話が盛り上がった。トミーも感じが良くて素晴らしい時間だった。翌日にライブにも行ってまた少し話すことができた。そのときはトニーからもらったデッキの話はしなかったけどね。敢えて話さなかったんだ。その後にインスタグラムに例のデッキを投稿して、トミーかトニーのどちらかをタグ付けしたのかな。そうしたら、それをきっかけにトニーから連絡が来たんだ。「あのデッキを持っているのか!?」って。「もちろん。コンテストでデッキをもらった最高の思い出だから」って返事したよ。

V: いい話だね。

A: インスタグラム上でのやり取りだったんだけど、トニーいわくあのデッキは合計で10枚ほどしか存在しないらしいんだ。仲間にあげたりして、オレの以外はどこにあるかわからないらしい。結局Santa Cruzでプロに昇格しなかったからプロモデルにもなっていない。あのアシンメトリーのシェイプが彼のプロモデルになるはずだったそうだ。そしてさらに最近、Bookmarcでのライブでトミーと再会したんだ。そして「あのデッキをずっと手元に置いていたけど、次のフェーズへ進むべきだと思う」と言ってトニーからもらったデッキの写真を見せてすべてを話した。インスタグラムでやり取りした話も含めて。トミーは喜んでいたよ。「SFに持ってこいよ。来るときは連絡してくれ。Deluxeで会おう」って言ってくれた。

V: 最高。

A: 次にカリフォルニアに戻るときはデッキを持っていってふたりに会おうと思う。そして例のデッキには持ち主のもとで然るべき時間を送ってほしい。トミーかトニーの手に戻り壁に飾ってもらえればまた語るに値する新しい話ができるだろ? そうなれば本当に面白いと思う。だってオレが持ち続けていても何も起こらないわけだから。こうやって本当の持ち主に返すことができたら最高だね。

 

Stephen Anri Marshall
@onezilla

カリフォルニア州ユーレカ出身、東京在住。'70年代終わりからカリフォルニアのスケートコミュニティでさまざまなことを経験したのち'00年に東京に移住。スケート文化との邂逅が人生の源泉になっている典型にして、生粋のスケートボーダー。

 

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