VANS SLIP-ON PRO

SK8MAFIAやSTRAYEに所属するブランドン・ターナー。第二の故郷日本でスタートしたスケートライフ、そして知られざる半生を赤裸々に語る。
──BRANDON TURNER

2019.12.09

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photos_Kentaro Yamada
Special thanks_Green Door

日本に住んだことでオレのアイデンティティが変わった

VHSMAG(以下V): 子供の頃に日本に住んでいたんだよね?

ブランドン・ターナー(以下B): 日本に来たのは'90年代初めだった。親父が軍人で横須賀基地に配属になったんだ。それで家族で日本に住むことになった。6歳から13歳まで横須賀に住んでいた。

V: ということは7年間、日本に住んでいたんだね。多感な時期だから人生の中でも重要な時間だったんじゃない?

B: かなり重要な時間だった。日本に住んだことでオレのアイデンティティがまったく変わったからね。

V: スケートは日本で始めたの?

B: いや、始めたのはアメリカだけど、スケートに専念しようと決めたのは日本。基地でいろんなスポーツをやっていたんだけど、全部辞めてスケート一色になった。

V: 日本のスケーターとはどうやって出会ったの?

B: 最初はデッキを持っていなかったから難しかった。カメちゃん(亀岡祐一)がやっていたWILD BOY'zっていうショップの存在は知っていたけど、当時はデッキが高くて親に買ってもらえなかった。だからビーチで遊んでいたんだ。そんなときに本郷友成(本郷真太郎&真輝の父親)に出会っていろんな場所に連れて行ってもらえるようになった。横須賀中央駅とかうみかぜとか…。ウメ(梅内 勉)やデミ(関本秀己)といった横須賀のスケーターとも仲間になった。そうやってみんなとスケートをするようになったんだ。

V: アメリカでスケートを始めたけど日本でいろいろ学んだって感じだね。

B: そう。人生初のキックフリップも友成に教えてもらった。場所は夜のダイエー。初めてコンテストを見たのも日本。これもダイエーだった。日本のOGスケーターをずっと見ていた。

V: 飯島健太と出会ったのは?

B: ダイエーのコンテストで初めて会ったんだ。

飯島健太(以下K): あれはWILD BOY'zのコンテスト。こいつはずっとコンテストを見ていたんだ。コンテストが終わるとオレのところにやってきて「このトリックできる!? あのトリックは!?」って。「なんだこのガキは?」って感じだった(笑)。その後オレは16歳の頃にサンディエゴに引っ越してPacific Driveでハングアウトしていたんだ。するとこいつがまたやってきて「なんでここにいるんだよ! 覚えてる? 横須賀に住んでいたブランドンだよ!」って日本語で話しかけてきて…。

B: 健太はマスカやシェフィと遊んでいたんだよね。オレはまだ小さなガキだった(笑)。

日本の文化が大好きになっていった

V: その偶然ヤバいね。日本でカルチャーショックは受けなかったの?

B: 最初はかなり混乱してずっと不安だった。自分がどこにいるのかよくわかっていなかったし。スマホもない時代だから「オレのアメリカの生活が完全に終わった」って感じだった。友成に日本の文化や習慣を教えてもらったんだ。日本はアメリカとまったく違う世界だから。アメリカ人は何にも気にしない(笑)。でも日本には礼儀というものがある。アメリカにはいろんな人種が住んでいるから互いを干渉しないんだ。少し時間はかかったけど、次第に日本の文化が大好きになっていった。

V: 日本でスポンサーがついていたんだよね?

B: WILD BOY'zがオレの初めてのスポンサー。 WILD BOY'zのウィールをもらった記憶がある(笑)。

V: 日本で忘れられない思い出は?

B: 最高の思い出が多すぎる。日本ではいろんなクレイジーなことがあったから。日本で健太と出会ってアメリカで偶然再会したこと。インスタもない時代なのに…。ダイエーのコンテストでいろんなスケーターを見れたこと。そしてその瞬間に「これだ!」ってスケートの道を進む決心をしたこと。だからオレにとって日本は特別な場所なんだ。日本でスケートに心を奪われたんだから。最高の思い出はひとつの体験じゃなくてすべての繋がり。そして日本のスケートコミュニティに受け入れられたこと。

V: 13歳でサンディエゴに戻って飯島健太と再会したわけだけど、当時はすでにVoiceのライダーだったの?

B: Voiceに加入する少し前だね。ピーター・スモリックとカンテン・ラッセルとVoiceにいた頃はパシフィックビーチでよく滑っていた。Voiceはなくなったわけじゃなかったけど、マスカに誘われてShorty'sに移籍することになったんだ。難しい決断だった。仲間との別れは辛かったけど、こればかりはどうしようもない。でも最終的に正しい決断だったと思う。

V: Shorty'sは爆発的にヒットしたからね。

B: Shorty'sで本格的にオレのキャリアがスタートした感じだった。スタッフも最高だったしチームもタイトだった。日系のジョージ・ナガイがチームマネージャー。ツアー三昧でプロジェクトが絶えなかった。だから最高のビデオができたんだ。すべてリアルだったから。チームといつもハングアウトして楽しみながらスケートをしていた。Shorty'sは本当の意味で一丸となっていたブランドだった。

V: たしかにそれは『Fulfill the Dream』に顕著に表れていたね。

B: 今でもフルレングスに取り組むブランドはあるけど、ビデオから感じる特別な感覚というか…。パートがヤバいのは結構なことだけど…。オレがフルレングスで感じたいのはスケート以外のものなんだ。スケートを取り巻く愛情やチームの仲間意識。たとえば仲間と馬に乗ったり…。

V: 『Fulfill the Dream』のイントロだよね。なんでみんなで馬に乗っていたの?

B: いや、別に…。「ハングアウトして、ホテルを取って、美味いものを食って、馬に乗ろう」っていうのがオレたちのプランだった(笑)。あの日はスケートがオフの日だったから馬に乗っただけ。
 



 

V: 当時はOsirisのライダーでもあったよね。

B: そうだね。その前はéSにいたんだけどね。トム・ペニー、コストン、マスカがチームメイトだったんだけどOsirisがスタートして誘われたんだ。éSを辞めるのも難しい決断だった。でもこのような決断でキャリアが一変することもあるから。オレは新しいプロジェクトに参加したいタイプなんだ。
 


 

V: Shorty'sとOsirisはかなり人気があったよね。若くして大金を掴んだと思うけど、当時の生活はどんな感じだったの?

B: パーティ三昧。つねにヴァケーションのような感覚でずっとスケートしていた。アパートも2部屋持っていた。18歳で娘が生まれたんだけど、一部屋はパーティ用でもう一部屋は家族用(笑)。今考えるとアホだったと思うけど、当時は家族とパーティの両方がほしかったんだ。オレは無敵だと思い込んでいたんだ(笑)。

K: 同じ場所でハングアウトしていたから、小さなガキから有名なスケーターに成長するのをずっと見ていた。普通は18歳頃からパーティにハマるものだけど、こいつはガキの頃から遊びまくっていた。

B: パーティ三昧の生活がスタートしたのは15歳の頃だったよね。

V: SK8MAFIAはどうやって始まったの?

B: '05年にShorty'sが終わったんだ。なぜか空中分解した感じだった。「スケートマフィア!」って言い始めたのはマスカだった。そしてピーターがその名前を使ったんだ。
 


 

V: SK8MAFIAのハンドサインは誰が考えたの?

B: ピーター・スモリック。ヤツはオレがガキの頃からサンディエゴのレジェンドだった。赤いシューズにビッグパンツ。母親がショッピングする店があるんだけど、その店の前にレッドカーブがあってスケーターがたくさんいるんだ。ある日、母親がショッピングしているときにピーターに話しかけたんだ。オレはまだ5歳だった。日本に引っ越すことを伝えると、「戻ってきたら連絡しろよ」って言われた。だから帰国して言われた通りにした。ピーターの住所を調べてプッシュでヤツの自宅まで行ってドアをノックした。するとピーターが出てきてこう言ったんだ。「外に座って待ってろ」。何時間も出てこなかったけど…(笑)。

オレの経験を子供たちに伝えるのは大切だと思う

V: 結果的にプロスケーターになって素晴らしいキャリアを進むことになったわけだけど、浮き沈みもあったよね。刑務所にも入っていたんだよね。

B: ツアー、スケート、そしてパーティの連続…。酒をアホみたいに飲んで、次第にドラッグにハマって売人をするようになった。まさにマフィアのライフスタイル。金を注ぎ込んでさらに金を作ろうとしたんだ。スケートに専念する代わりに悪い連中と付き合うようになった。間違った選択をして何度か死にかけた。車に轢かれたり、警察から逃げながら橋から落ちて両脚と頭蓋骨を骨折したり…。度が過ぎていた。いつも酒やドラッグでファックアップしていた。ドラッグをやるだけでは物足りなくてドラッグを売っていた。そうやって刑務所にぶち込まれたんだ。刑務所がクールだと勘違いしているバカもいると思うけど、あれは最悪の場所。冗談じゃない。

V: どれだけ入っていたの?

B: 刑務所は17ヵ月。それ以外にも10回以上逮捕されている。その度に3、4ヵ月、留置所に入れられていた。

V: 小学校でそういう経験を話しているんでしょ?

B: 子供たちに同じ過ちを犯してもらいたくないからね。でも説教をしているわけじゃない。自分は大丈夫だと思っていても、誰でも簡単に道を踏み外すことがある。付き合う人間も気をつけなければならない。特にアメリカにはドラッグに溺れて命を奪ったり奪われたりする若者が多いから。オレの経験を子供たちに伝えるのは大切だと思う。

V: 今は完全復活してビデオパートを撮影しているんだよね。進捗はどう?

B: もうすぐ完成かな。あとは写真が何枚か撮れればパートが公開できる。フルパートだからかなりいい感じに仕上がるはず。

V: 今のシューズスポンサーはStraye?

B: そう。エンジェル・キャバダとミルコ・マンガムが始めたブランド。かなりドープなシューズを作っている。

V: Hip-Hopのアルバムもリリースしたばかりだよね。Shorty's『Guilty』のパートの曲も自分のラップだよね。

 

 
B: オレの体験を綴ったアルバムを作りたかったんだ。オレのストーリー。『THE CHAA』というアルバムで“Channeling All Awareness(全意識との交信)”の略。Ruska Beatsとの共同制作。クリエイティブに遊んだ感じ。それこそスケートの醍醐味だから。アート、音楽、創作…。人生に脚本なんてない。好きなように生きればいいんだ。オレはそう信じている。
 

V: 日本で初めて会ったスケーターである本郷友成の息子たちが今ではアメリカに飛んで勝負しようとしている。ブランドンにとってそれはどんな感覚?

B: 最高だよ。友成がオレの人生初のキックフリップを教えてくれたんだから。そんな恩人の息子たちをサンディエゴで世話できるなんて素晴らしい。あの子たちがスケートの道を進むようになったのは親父がスケーターだったから。だからいつもこう言うようにしているんだ。「すべては親父のおかげだぞ」って。真太郎も真輝も最高のスケーターだ。オレの甥っ子みたいなもんだよ。

オレは日系アメリカ人のプロスケーターだと思っている

V: 日本に住んでいた頃の話に戻るけど、帰国が決まったときはどんな感じだった?

B: アメリカに戻りたくなかったけど…でも同時にアメリカでプロになりたいという夢があったから。そしてアメリカで有名になって日本に恩返しをしたかった。「日本がオレのルーツだ」ってね。だからオレは自分のことを日系アメリカ人のプロスケーターだと思っている。オレは日本をリスペクトしている。すべてが日本で始まって、アメリカでプロになれたんだ。

V: では最後に今後の活動予定を。

B: ビデオパートが出る以外はカンテン・ラッセルとLivin' Proofというブランドをスタートさせる。あとは健太がスケートパークを日本に増やすプロジェクトを始めるみたいだから、それに協力して日本に恩返しできればいいね。

 

 

Brandon Turner

1981年生まれ、サンディエゴ出身。幼少期に日本でスキルを磨き、アメリカでプロ昇格を果たす。代表作はShorty's『Fulfill the Dream』やOsiris『The Storm』など。ラッパーとしても活動し、デビューアルバム『THE CHAA』をリリースしたばかり。
@bturner_

 

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