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スケートとグラフィティをバックボーンに持ち、和のテイストを作風に取り入れる絵描きのESOW。風来の半生を振り返ると、数々の日本初が見えてくる。
──ESOW

2019.06.10

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Photos_Shinsaku Arakawa

VHSMAG(以下V): まずはスケートの出会いから教えてください。

ESOW(以下E): スケートの前にサーフィンがやりたいと思ってたんだよね。それでサーフィンの雑誌を見たら、昔のThrasherとかによくあったようなスケートボードの板が並んでるStormyか何かの広告があって。その広告に載ってたグラフィックが当時のサーフィン業界のものよりイケてんなって思ったのが最初。サーフィンをやりたかったんだけどスケボーのほうが安いし。それで近所でスケボーを買ったってわけ。小学校5年生くらいの話だね。

V: スケートショップで買ったんですか?

E: いや、ホームセンターみたいなショボいところ。「KIKI」ってハワイのラジオ局のステッカーが貼ってあった。それが最初の板だね。まともな板を買ったのはムラサキだったかな…。当時スケートボードをまともに扱ってたのはムラサキ、Stormy、西武スポーツとミナミスポーツだったと思う。あとサーフィンがやりたくてひとりで七里ヶ浜に行ったときに、Hot Butteredっていうお店があってそこのクラブ員みたいなものになって。そうしたら板とか借りれるし。スケートボードも置いてたからそこでSanta Cruzの板を買ったんだよね。ジェフ・ケンダルの板だったと思う。

V: 当時は誰と滑っていたんですか?

E: サーフィンしに行ってたから湘南のヤツらと滑ってたね。ZIZOWちゃんたちと知り合ったのもその頃。町田に引っ越した頃で小田急線で近いからよく湘南の方に行ったりしてた。

V: では影響を受けたスケーターは?

E: クリスチャン・ホソイとか。DOGTOWNのアーロン・マーレー、エリック・ドレッセン、スコット・オースターとか。あとはナタス・カウパス。

V: やっぱりスタイル重視ですよね。

E: まあ、かっこいいほうがいいでしょ。

V: ですね。でもESOWさんといえば東京の下町っていうイメージが強いですけど。

E: 下町のほうだとMax Motionに行くようになってそこの連中と仲良くなった。五十嵐とか、死んじゃったけど昔Koshinにいた門馬とか。そこらへんとよく滑ってて、その頃に(尾澤)彰とかが上野のムラサキにいて。Max Motionとムラサキは仲良かったから結構一緒に滑ったりして上野公園によく行ってた。

V: ESOW以外にJESSEとも呼ばれていますが、そもそもJESSEという名前はどこから来たんですか?

E: ジェシー・マルチネス。ジャンプランプでメソッドをひねる技があって。ツイークだと前足の前で板をグラブするんだけど、これはバックサイドグラブでひねる技。それをよくやってて、「JESSE」って呼ばれるようになった感じ。当時はジャンプランプが一世風靡してたから。

V: スケーターとして名前が広まるようになったきっかけは何だったんですか?

E: デビルマン(西岡昌典)がやってたOllieっていう雑誌ができたことだね。デビルと湘南で知り合ってたから仲良くて、連れられていろんな場所に行ってた。あの年代のヤツは大体Ollieがきっかけで有名になったんじゃない? 彰とかも出てたし。

V: 僕らから見るその世代ってかなりタフなタイプが多くて怖かった印象があるんですけど、当時はどんな感じだったんですか? 西さんと動いてたということもあって、いろいろハードなことがあったと思うんですけど…。

E: まあね。先輩とばっかり動いてたからね。昔は頭のおかしい不良の先輩が多かったから(笑)。

V: インタビューで言える範囲で何かエピソードあります?

E: 言える範囲…? 言える範囲とかないかもなぁ…。サンフランシスコでデビルマンにナイフを突きつけられたことくらいかな、言える範囲だと(笑)。

V: ナイフ? なんでですか?

E: 理由を言うとまた何か…(笑)。

V: 言えない理由でナイフをつきつけられた、と…。かなりヘビーですね(笑)。ちなみに初スポンサーはどこだったんですか?

E: California StreetとBetty'sっていうサーフショップかな。そこでDOGTOWNの板とか洋服とかをもらってた。

V: Betty'sってDOGTOWNのライダーを日本に呼んだりしてたんですよね?

E: そう。アーロンとか呼んでたね。DOGTOWNを初めて輸入したのがBetty'sだから。

V: それから十代でLAに移住したんですよね?

E: でも初めてアメリカに行ったのはハワイ。デビルマンに連れられてスケートしに行ったんだけど、そこでローカルの連中を紹介してもらって。この話はいろんなところでしてるんだけど、デビルマンがハワイに着いて2日目くらいに「アメリカに行くから」ってひとり置いていかれて。英語も何もしゃべれないのに。とりあえず置いていかれてローカルスケーターの家をたらい回しにされながら過ごしてて(笑)。それで1週間くらいしてデビルマンが帰ってきた。「ふざけんなよ」って思ったね。

V: その後にLAに行ったんですね。

E: そう。働こうと思ってLAに行ったんだ。それでヴェニスの近くの寿司屋で働いて。とりあえずどこかで働こうと思って。ソーシャルセキュリティナンバーを取って、銀行口座さえ開けば働けるから。イミグレはぶっちぎりになっちゃうけどね。だから3ヵ月LAにいてメキシコに行ってっていうのを繰り返してた。LAには1年いて、日本に帰ってきて、その後はハワイに2年住んでた。

V: LAの寿司屋はどうだったんですか?

E: 仕事してたよ。メキシカンと一緒に。厨房に入って。天ぷら揚げて。天ぷらとテリヤキと寿司の店だったから(笑)。17歳くらいの頃かな。

V: でもよくその歳でアメリカに住もうと思いましたよね。

E: まあね。その頃の憧れはアメリカにあったから。

V: LAはツテなしで行ったんですか?

E: LAはそうだね。Bronze AgeとかやってたヴェニスのCircle Surfっていうサーフ/スケートショップと仲良くなって。Tシャツくれたり板を安くしてくれたり。その後にハワイに住んだときはグラント・フクダってヤツの世話になってたんだよね。そいつがアメリカ本土から来たスケーターのアテンドをしていたから、ホソイと一緒にプールに入ったりしたこともあった。

V: グラフィティを始めたのはLAにいた頃ですか?

E: そうだね、たぶん。オレの住んでたナショナルって所に昔電車が通ってて線路がだけが残された場所があるんだけど、そこにトンネルがあってグラフィティが一面に描かれていて。そこにフラフラ行ってグラフィティを見たり描いたり。その頃はタグばかり描いてた。今はニューヨークにいると思うんだけど、当時はCHAKAってヤツがLAに描きまくってた。電話ボックスから何から描きまくり。小さいタグから太いスプレーまでいろんな場所に描いてあって。「こいつ何なんだ」って思ってそいつの真似事みたいなことをしてたかな。ハワイでもバス停とかに描いたりしてたね。

V: 日本のグラフィティライターとしては第1世代ってことですよね?

E: そうだね。横浜のレゲエの人で壁に描いてる人がいたけどグラフィティって感じじゃなかったかな。昔のレゲエのレタリングの中に波が描いてあるようなやつ。そういうフォントの字を桜木町の壁に描いてる人とかキース・ヘリングみたいなLOCOとかいう人もいたけど。でもKAZZROCKとかはその頃からいた感じだね。

V: 当時の名前はSMASH ONEですよね。ちなみにT19はどういう経緯で加入したんですか?

E: Betty'sで板とかもらってたんだけどそれが閉店してスポンサーがなくなっちゃったんだよね。そんなときにサルーダと彰がOさん(故・大瀧浩史)が始めたブランドに入ったって聞いて。それで原宿でOさんに「オレもライダーにしてください」って言ったらふたつ返事で迎え入れてくれて。Akeemの次にオレが4番目に入った感じ。それでその後にYoppiが続いたのかな。T19はもともとBe'in-Worksのオリジナルの板だったんだよ。まず花札のグラフィック、龍のエバースリックみたいのが出て、3本目からT19に変わったんだ。

V: SMASH ONEってタグしたモデルを大瀧さんに見せてもらったことがあります。

E: やらされたヤツだ。だって100枚くらい全部描いたんだよ、オレ。「描け」って言うから。当時はBe'in-Worksが藤沢にあったからそこまで行って、タグ描いてステンシルするみたいな。すげぇ描いたよ。

V: T19で思い入れ深いプロジェクトは何ですか?

E: T19のみんなでBack to the Cityの大会に出るためにサンフランシスコに行ったことがあった。彰は14位とかいい結果出してたんじゃないかな。オレは全然ダメだったけど。

V: 当時の彰くんはヴェニスの大会とかにも出てて、Big Brotherにシークエンスが載っていたのを覚えてます。

E: 載ってたね。オレはそのヴェニスの大会の前の日に変なギャングに板を取られて…。マリーナ・デル・レイのでっかいスーパーの駐車場でみんなで夜中に滑ってたら、オレの前にHondaの怪しいシャコタンが止まって。中からサモアンみたいなヤツが出てきて「カシャッ」ってショットガンを突きつけられて「金出せ」ってホールドアップされたんだよ。「持ってない」って言ったら板を取られて。そのギャングの後ろでサルーダがどんどん小さくなっていって。スーパーの影に「スッ」って入って消えて。それで顔をチラチラ出してこっち見てて。「ふざけんなよ」って思いながら…(笑)。だからヴェニスの大会はOさんの板で出た。

V: ヤバいですね。後にも先にもそんな経験はそれだけでした?

E: いや、あるよ。車撃たれたり。California Streetの社長とLAで車に乗ってたら後ろのガラスが割れて。まぁ、理由は言えないけど(笑)。あの頃のLAはいかつかったから。『カラーズ』って映画が出た直後だったし。みんなバンダナ巻いて、ネルシャツの上だけ留めて、Dickies穿いて、Cortez履いてみたいな。オレもCortez履いてたし。そんなのギャングと体育の先生しか履かないから、そんなの履くのやめろってスケーターに言われたけど(笑)。

V: 帰国してからはアパレルブランドもやってましたよね。

E: それは日本に帰って結構経ってからだね。最初にCalifornia Streetの社長と洋服作ろうって感じでまずManiacを始めたんだけど、独立してひとりでやるようになって。それでT19をOさんと始めた三野くんと一緒になってしばらくWord of Mouthをやってた。

V: 森ちゃん(森田貴宏)はいまだにスポンサー欄にWOMって書いてますよ。

E: マジ、やめてほしい(笑)。

初めて絵を描いて金をもらった。そこから絵で行こうって決めた

V: スケートから絵に移行していったのはいつ頃からですか?

E: H-Streetのビデオが出たくらいからスケートボードではちょっと無理だなって思って。「これついていけねぇわ」って。回しとかインポッシブルとかが入ってきて。Plan Bのパット・ダフィのハンドレールを観て「もうダメだ。こんなん無理だ」って思って(笑)。それで一線からは退こうって思った。スケートボードで雑誌とか載らなくてもいいやって。特にガツガツしなくなった。普通に滑ってたけどね。その頃かな。

V: 当時はスケートでも絵でも簡単に食えない時代ですよね。

E: 全然食えないよ。どうしようかなとは思ってたけど。のちに六本木のEROSってクラブの壁に描くようになるんだけど、そこのオーナーの人がやってる由比ヶ浜の海の家で初めて絵を描いて金をもらったんだ。「こういう食い方もあるんだな」って思った。そこから絵で行こうって決めたね。昔はスケートボードしかしてなかったし。中卒だし。特に他の方法で働くことなんてできねぇだろうなって思ってたから(笑)。やるしかねぇなって思ってた。最初はバイトもしながら絵の仕事を受けてって感じだったけど。


 

V: ESOW名義はいつからですか?

E: 捕まった後。20代の頃だったかな。原宿駅の階段でベロベロに酔っ払って描いてたら後ろから駅員に手を掴まれて。それで速攻警察が来て。ちょうどグラフィティが問題になってたから見せしめみたいな感じ。10日間留置。それからもちょいちょい描いてたけど。2回目に捕まったときは書類を書いて終わったんだけどね。

V: そこからSMASH ONEをやめたってわけですか。ちなみにESOWの由来は?

E: SMASH ONEの頭文字の「エス=ES」と「オー=OW」でESOW。

V: 作風に和のテイストを取り入れていますけど、その経緯は何だったんですか?

E: TWISTの影響はでかかったけどね。すげぇ好きだったから。なるべく似ないように描いてるけど。やっぱアメリカの真似しててもアメリカ人には勝てねぇし。日本ぽいことやんなきゃなって思ってやってる。

V: そういえば「New York YankeesじゃなくてTokyo Giantsのキャップを被ったほうがいい」って言ってたって聞いたことがあります。

E: 今でもそう思ってるけどね。何でDodgersとかYankeesとか被ってんのかなって。LAのヤツは絶対にYankeesの帽子なんか被んないじゃん。そういうのはアメリカに行って逆に気づいたかな。真似ばっかしててもダメなんだって。そこでOさんたちがT19、つまりTokyo Skatesって名前でやってんのがかっこいいなってすげぇ思ったし。そこにライダーとして迎え入れてもらえたのはすごくうれしかったよね。

V: いろんなものを築いてきた世代ですもんね。

E: アキさん(秋山弘宣)、カツさん(秋山勝利)とかデビルマンの世代がいて、その下にOさんの世代があって。その間がすごく空いてると思うんだ。ガキの頃にアキさんたちを見てたのがOさんの世代。それでオレらはガキの頃にOさんとかを見てた。ハードコア聴いて、きったねぇかっこして、原宿のムラサキの前でたまってんのとかがすげぇかっこよくて。三野くん、Oさん、シンちゃん(SKATE THING)、山ちゃん、スティーブって人がいて。その5人がいつもつるんでて。そのグループにめちゃくちゃ憧れて。Oさんは当時“DUAAA!”っていうzineも作ってて。めちゃくちゃでかっこよかったんだよな。

V: また絵に話を戻したいんですけど、個展を開いたり、いろんなブランドとコラボしたり、昨年は伊勢丹から声がかかったりもしていましたよね。絵描きとして食っていけると確信した瞬間とかはありましたか?

E: 徐々にだね。オレは一切営業かけないから。向こうから来るだけ。オファーを断らないでやるだけ。つねに描いて動いてなきゃダメだけどね。極力進歩しようとがんばってるけど。それで展示をいっぱいやって。それやらないと食えないし。絵を買ってもらって生活してる感じ。今は絵を描くスケーターもいっぱいいるしさ。(村岡)洋樹とかもそうだし。でも食えるようになるまでなかなか大変だよね。オレも47歳でやっとどうにかちゃんと絵で生活できるようになった感じだから。

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V: Maniac、WOM、それ以外にもアパレルブランドのRGOAやTransmitもやってましたよね。特にTransmitは国内初のスケートシューズのブランド。スケートシューズを作ろうと思ったのは?

E: いやまあ、スケシューを日本でやりたいってだけだね。でも友達と何かをやるのは大変だよ。今はひとりがいいと思ってる。ストレスないし。その結果ここでひとりでやってる。

V: Maniacは国内のスケートシーン初のアパレルブランド、Transmitも初スケシューブランド。グラフィティも日本の第一世代。今までの活動を振り返ると、なかったものを作ってきた感じですよね。

E: まぁ、そういう文化がそこまで浸透してなかったからね。

V: あと浅草のアトリエ/ギャラリー/ショップのフウライ堂はどういう経緯で始めたんですか?

E: ものづくりしてる友達が下町にいっぱいいたから一緒にスペースを借りて何かやろうっていう感じで始めたんだ。それでひとり抜け、ふたり抜け。入ったり出たりして最終的にバレリー(丸山陽介)とふたりでやってたんだよね。でも店とか疲れるからもういいかなって。知らない人とか来なくていいかなって(笑)。ていうか、絵の仕事ができなくなっていった。しかもあそこの地下街は暑くて。夏とかアホみたいに暑いんだ。家で仕事してたくらいだから(笑)。行ってないのに家賃払うのもなんかな…みたいな。それでやめた。もちろんた楽しかったけどね。フウライ堂って名前でいろいろやったし。

V: でもひとりがいいと言いながらも、自然と人は集まってきますよね。KAWAともコラボやってますし。

E: あいつらは付き合いやすいから。一緒に遊べるヤツと遊びながらできるくらいの感じならやろうかなみたいな。KAWAの写真も結構好きだし。スケーターだけが主役じゃなくて全体で観れるっていうか。あと田舎で撮ってる写真が多いからさ。東京のヤツらじゃないじゃん。だからそれが逆に日本ぽくていいなって思える。景色の中にスケーターがいてトリックもかっこよかったら余計いいっていう。

V: では最後に絵描きとしての今後の活動予定と展望を教えてください。

E: Bueno! Bookから『絵僧暦・DAILY ESOW』っていう作品集が出たばかり。展望は…特にないわ。オレはずっとこんな感じで描き続けていければいいなと思ってる。特にでっかい仕事がやりたいとかそういうギラギラしたものはない(笑)。普通に生活できて、酒飲んで、毎日絵を描いて。それで幸せかな。

 

 

ESOW
@esowom

1972年生まれ、東京都出身。'90年代にT19の一員として東京スケートシーンを牽引。数々のアパレルやスケシューブランドを手がけ、現在はESOW名義で絵描きとして活動中。作品集『絵僧暦 DAILY ESOW』もリリースされたばかり。

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