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川崎サウスサイドの路上に生きるラッパー、A-THUG。ゴールドチェーン並みに輝くスケートボードカルチャーについて語る。
──A-THUG

2019.10.21

[ JAPANESE / ENGLISH ]

Interview, Structure and Words_Dai Yoshida
photos_Kohei Kawatani

 Hip-Hopユニット、Scarsのメンバーとして「カワサキ・サウスサイド(神奈川県川崎市南部)」の名を日本全国の音楽ファンに知らしめたラッパー、A-THUG。ハスリンを始めとするストリートでのタフな経験を生々しい言葉でスピットしてきた彼が、2019年初頭からスケードボードに興じる姿をインスタグラムにポストしていることをご存知だろうか。

 川崎のストリートやスケートパークでトライ&エラーを繰り返しつつ、ひたむきにスケートボードと向き合うスケーター、A-THUGの姿は、これまでのハードコアなイメージとは少し違った輝きを放っているように見える。今、彼の内面に大きな変化が起きているのではないか。そして、その変化をもたらしたのはスケートボードなのではないか。スケート&ストリートカルチャーを追求するVHSMAGはA-THUGにスケートとの関わり、そして現在の心境について詳しく話を聞くことにした。まずはインタビューの実現に協力してくれたカルロスひろし、グラフィティライターの山田丸、そしてA-HIGHクルーにリスペクトを。

大師公園に行ったら、そこで滑ってた年上のスケーターと仲良くなった

 2019年、夏の終わりのある日。A-THUGが待ち合わせの場所として指定してきたのは川崎南部、住宅街の路上だった。バビロンに付け狙われるハスラーは、やはり自らの所在を明らかにしない…のだろうか。約束の時間が近づく程に取材チームの緊張感は増していく。
 しかし我々の前にオンタイムで現れたA-THUGは、拍子抜けするほどのグッドヴァイブスを放っていた。数人の仲間を引き連れ、弾むような足取りで、しかし悠然と歩み寄ってきた彼は「ひとまず飲食店に移動してインタビューを行おう」という我々の提案を制し、爽やかな笑顔で意外な言葉を発する。

 「そんなのよりオレの家に行きましょうよ」

 川崎のとある場所にあるA-THUGのクリブに足を踏み入れる。ドープの香りがかすかに漂う薄暗いダイニングキッチンのテーブルには、FTC『Finally』や411VM Vol. 1をはじめ、'90年代から最新のスケートビデオやDVD、そして新旧のスケートマガジンが堆く積み上げられている。その傍らにはグラフィティやHip-Hop関連のステッカーの分厚い束。質の良さそうなドープの横には、しばらく使われていないように見えるゴールドのチェーンやリング、時計が並ぶ。スラムを恐れないハードコアなスケーターは、高級時計との関係が疎遠になる。A-THUGも、その例外ではないようだ。

 「スケートのことを聞いてくれるなんて嬉しいですよ」

 ペットボトルから紙コップに緑茶を注ぎ、こちらに柔らかな笑顔を向けると、A-THUGはスケートについての思い出をゆっくりと、噛みしめるように語り始めた。

A-THUG(以下A): オレは'80年生まれなんですけど、小学校5年生のときに兄貴がスケートボードを買ってきたんです。多分兄貴の同級生の間で流行ってたんでしょうね。で、兄貴が乗らなくなったんで、なんとなくオレが乗るようになって。スケートボードに乗って大師公園(※1)に行ったら、そこで滑ってた年上の人たちと仲良くなったんです。 自分は小学校6年生だったけど周りは中学生、 高校生が多くて大人もいました。今みたいにキッズのスケーターが大勢いるような環境ではなかったね。Goldfishのコボ(※2)は1個上だったんですけど、もう滑っていて。彼とは小学校からの友達なんです。

(※1)大師公園:神奈川県川崎市川崎区にある広さ約8万8千㎡を誇る大型都市公園。
(※2)コボ:大富 寛(おおとみひろし)。川崎を代表するスケーターのひとりにして、大師パーク建設の実現など同地のスケートコミュニティに尽力。先年惜しまれつつクローズしたGoldfishの元店主であり、DJとしても活躍中。

VHSMAG(以下V): 当時、小学生の頃からかなり本格的に滑っていたみたいですね。

A: 近い場所に上手い人がたくさんいたのがデカいですね。ハル(関口晴弘)くんとかコボとか。大会にも何回か出ましたね。川崎のムラサキスポーツが開いた大会では技が全部決まって、1回だけど優勝することができました。当時使ってたのはエリック・コストンのラスタカラーのデッキ。あとはGirlのサッカーチームのやつ。まあ時代ですよね。当時Girlチームが日本に来たんだけど、コストンのリュックがJanSportだったり、履いてるのがTimberlandのブーツだったりしたんですよ。その頃、日本でそういう格好をしてるのってダンサーとかDJだったりHip-Hopの連中だけだった。今考えるとすごくクールだよね。

V: Timberlandを履いているスケーターといえば、当時Elementにいたペペ・マルチネス。あとHip-Hopとスケートって言うと、個人的にはなんとなくZoo Yorkの『Mixtape』をイメージします。

A: 『Mixtape』が出たのはもっと後。『KIDS』でブラントを吸いまくってたハロルド・ハンターも、『Mixtape』とか映画に出て有名になる前からスケートビデオには結構出ていましたよね。スティービー・ウィリアムスとかも昔は狂った感じのガキでヤバかったけど、今は超かっこいいよね。でも当時は「おチビちゃん」って感じだった(笑)。
 


344って溜まり場で、いろんなビデオを観せてもらった

 そんなA-THUG少年に強い影響を与えたのが、関口晴弘が率いる川崎のローカルクルー、344(スリー・フォー・フォー)。彼らがハングアウトする“事務所”に入り浸っていたという少年時代のA-THUGは、スケート、音楽、ファッションなどの最新情報、そしてストリートマナーを吸収し、急速に成長していく。

A: 当時、344っていうスケーターのクルーがあったんですよ。ハルくんの実家のお店がミヨシヤって名前で、そこから344。その溜まり場には本当によく遊びに行ってましたね。いつもハルくんや仲間がいるんですけど、たくさんビデオを観せてもらいました。当時、一番よく観たのはWorld Industriesの『Love Child』('92)、『New World Order』('93) 。あと101の『Promo』('92)とか。最初のパートにアダム・マクナットとかが出てくるんですよ(笑)。New Dealのビデオもよく観てた。日本のビデオとかも超好きだったよ。NewTypeとかCandyのビデオもありましたよね。あのへんも面白かったのを覚えてる。スケーターで言うと、やっぱり子供だったから自分と同じチビのスペンサー・フジモトとかダニエル・キャスティーヨを見てましたね。だってコリン・マッケイとかダニー・ウェイはハンパないじゃないですか。「かっこいいよな…」と思っても真似することができない(笑)。
 

 
A: 当時滑っている人たちって、どう考えてもかっこよかった。だから先輩からの影響は超強いですね。344もそうなんだけど、とにかく周りの年上はめちゃくちゃかわいがってくれましたね。スケートはもちろん、音楽も教えてくれるし。しかもあの人たちってオシャレじゃないですか。服とかもガンガンくれるんですよ。うれしかったな…。音楽でいうとGreen DayとかBad Religionが流行ってたのを覚えてる。オレは…結局スケートビデオの曲ばっかりだった。だから意外かもしれないけど、ビートルズなんかも聴いてました。なんかのビデオで使われてたんだよね。なんだっけ? もちろんHip-Hop、例えばWu-Tang ClanとかA Tribe Called Questなんかも聴いてて。そういえば小学校の給食の時間に放送室からBeastie Boysの曲をかけたのを覚えてる(笑)。

V: スケートをするのは大師公園がメインだったんですか?

A: ですね。でもそのうち並行して別の場所にも行くようになるんです。お金なんてないから、一番安い切符で電車に乗って。駅の自動改札が「バタン」と閉まってもそのまま出て行っちゃう。「140円持ってれば、川崎からどこまででも行ける」って気付いちゃったんです(笑)。もちろん地元の大師公園でのスケートも大事だけど、オレも子供だったんで。いろんなところで滑りたかったし、いろんな人とツルみたかった。とにかく新しい世界を見たかったんですよね。だから秋葉原とか世田谷公園でも滑ってました。当時、日本ではT19が有名だったよね。ヨッピー(江川芳文)とか尾澤 彰はとにかくオシャレ。あとジェシー川田は原宿のムラサキスポーツとかにグラフィティを描いてた。そうそう、今もだけどスケーターってグラフィティライターが多いですよね。あとはNewTypeの人たち。「スケートの世界ってクレイジーなんだな」って感じたのを覚えてますね。オレがスケートに夢中になってたのはそんな時代なんです。

「このプロジェクトでスケートボードをやっているヤツはいない」って言われて、納得してしまった

 A-THUGはスケートボードに夢中になるうちに、やがて自らの人生を大きく変えることになるHip-Hopカルチャーにのめり込んでいく。きっかけとなったのは、言うまでもなく344で浴びるほど観ていたスケートビデオ。また、'90年代の川崎において重要なストリートスポットとなっていた大師公園をホームグラウンドとしていたことも大きく影響しているようだ。

A: オレがスケートをしてたタイミングで、スケートボードのビデオにHip-Hopの曲がたくさん使われるようになってきたんです。たとえばリチャード・マルダーがDas EFXの曲を使ったり、MenaceがMethod Manの曲を使ったり。当時の大師公園って、スケーターだけじゃなく、ダンサーとかDJもいたりして、本当にいろんなカルチャーが集まるスポットだったんですよ。その頃になると、周りにもレコードを回す人が出てきてましたね。スケートしつつ、周りにいる人たちの動きをチェックしてたら、自然とHip-Hopの世界が知りたくなってきた感じです。それでHip-Hopダンスを始めるんですよ。ZOOのCAPさんに教えてもらってましたね。
 


 

V: ダンスには相当ハマってた感じですか?

A: やってた期間は短くて、下手したら1年ぐらい。なんでかっていうとオレはダンスがきっかけでNYCに行くんですけど、その頃から…いやスケートをやめるぐらいからドープが好きで(笑)。ダンスをやるためにNYCに行ったはずが、いつの間にか“ストリート”が好きになっていった。で、NYCには茶色いレンガで作られたプロジェクトっていう団地があるんですけど、そこに住んでいるヤツらと友達になって。そいつらの先輩だったり、お兄ちゃんだったりはウィードを売ってゴールドチェーンをつけてたりして。そういうことに興味を持つようになって、ダンスはやめちゃったんです。それが'96年の終わりか'97年の頭くらい。Notorious B.I.Gが死んですぐだった。Maseが流行りだしたくらいだね。「West SideとEast SideがBeef!! BiggieはDead!」…で、Bad Boyは上がってく、そんな時期。

V: ニューヨークではスケートしなかったんですか?

A: 当時のオレは、もう完全にHip-Hopの方がかっこいいと思ってたんで(苦笑)。しかもNYCのプロジェクトで地元のヤツに「Skateboard is only that white people do(スケートなんて白人のやることだ)」なんて言われちゃって。今にして思えば、黒人のスケーターだって結構いたはずなんですけど、当時のプロジェクトってそんな考え方をするヤツが多かったんです。それでなんとなく「(スケートができるってことは)言わない方がいいのかな…」って。でも今思えば、周りになにか言われて「そうなんだ」って思っちゃったのは恥ずかしいことだった。「いや、それでもオレはスケートボードをやるんだ」 って言えばよかったよね。今だったら絶対にそう言うと思う。

ロールスロイスで信号待ちしてる詐欺師より、 その横をプッシュで駆け抜けてくオレたちの方がクール

 NYCでストリートライフにどっぷり浸かったA-THUGはハスラーとなり、帰国後は裏稼業と並行して、ラッパーとしてのキャリアをスタートする。2003年頃にbay4k、Sticky、Seeda、Besら中学時代の先輩や友人と共に、Hip-HopユニットのScarsを結成し、リーダーとしてゼロ年代のジャパニーズHip-Hopシーンで大いに存在感を発揮。2006年にリリースした1stアルバム『The Album』は、ジャパニーズHip-Hopにおけるクラシックアルバムの1枚に数えられているので是非チェックしてもらいたい。新進気鋭のラッパーであり、おそらくハスラーでもあった当時のA-THUGの生活が多忙であったことは想像に難くない。はたしてスケートカルチャーを愉しむ時間的、精神的な余裕などあったのだろうか。そして彼はどのようにしてスケートカルチャーと再会したのだろうか。

A: 滑らなくなった後も、知らず知らずのうちにスケートできそうな場所を目で追ってたりはしてたんですよ。マンションの入り口を見て「ここで滑ったら楽しそうだ」とかね。それはずっとです。それと日本に帰ってきた後、いろいろあって刑務所に入ることになったんです。あそこってやることがない時間が多いんで、友達が送ってくれたり、自分で買ったりしたスケートの雑誌を読んで時間を潰してたんですよ。そうすると、だんだん昔の記憶が蘇ってくる(笑)。すぐにスケートボードをやっている自分の姿を想像するようになって、独居(房)とかで寝る前なんかはイメージでスケートしてた。そうすると夢の中でノーリーテールスライドをやってたりするんです(笑)。結局、オレはスケートヘッドなんだと思います。

V: 刑務所を出た後にスケートを始めたんですか?

A: 刑務所を出た後は、2011年にソロアルバム(『Bright Son!!』)を出したり、DMFとしても活動してきました。オレはDJ KENNっていうシカゴで活動しているトラックメーカーと一緒にアルバム(『Streets Is Talking』)を作ったことがあるんですが、その前後にシカゴに行ったらスケートが盛り上がっていて、ショップで一発技大会みたいなのやってたんですよ。誰かがトリックをやったら、次のヤツは同じことをしなきゃいけないってルールだったかな? パークでカーブをやってるヤツがいたりもして、「オレもやりたいな」って感じたの覚えてます。でも、その時は実際やるところまでは行かなかったんですよね。もちろん「(スケートを)やりたい」っていう気持ちはあったけど、 金があれば他の遊びもできたりするじゃないですか? それがちょっと前に状況が変わるんです。実はいろんなトラブルを抱えて、あとはドラッグをやめはじめたこともあったりして、一時的に全然金を持ってない時期があったんですよね。当時の所持金はマジで2,000円とか。そうなると、いよいよスケートくらいしかやることがない。それで、以前から「一緒に滑ろう」って誘ってくれてたスケーターのヨシキ(高橋歓輝)と連絡をとってみたんです。

V: で、滑ってみたら、思った通りめちゃくちゃ楽しかった。

A: もちろん。それだけじゃなくて、金を持ってないことも含めて、いろんなことが吹っ切れたんですよね。周りの人間に「ロレックスを買った」だの「車を買った」だの言われてもピンとこなくなった。「ロールスロイスで信号待ちしてる金持ちだか詐欺師だかわからないような連中より、その横をプッシュで抜けていくオレの方がかっこいいだろ」ってマインドになれた。だってスケーターは高い服なんか着てなくても、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか。その前はレンジローバーとかベンツを見たら「いいな」なんて思ってたんですけどね(苦笑)。インスタグラムにスケートの動画を載せてるのも、高い時計とか車を見せびらかしてるより、スケートしてるオレの方がかっこいいだろって思ってるからなんです。

V: 他のラッパーを見て「これは違うな」って思った?

A: それはちょっとあるかも。ラッパーってみんな役者じゃないですか? Jay-Zとかもスティーブン・セガールと同じで、自分がかっこよく見えるようにキメ顔している。もちろんそういうスタイルもあっていいけど。だけどスケートボードは、そこら辺で自然にやってるだけでクールだから。

V: そういった気分になるキッカケがあった?

A: スケートをもう1回始めた頃、ヨシキがDVD をくれたんですけど、その時にハルくんの先輩で、子供の頃に何度か一緒に滑ったこともあるイーサン(※3)が亡くなったことを知るんです。イーサンは、そのDVDの中で高級車の展示場みたいなところでスケートしてるんですよね。長い髪とネルシャツをヒラヒラさせて滑っている姿がめちゃくちゃかっこよかった。金なんかを超えたかっこよさだったんだよね。きっとあれでスケーターのかっこよさを思い出すことができたんだと思います。

(※3)石沢 彰:横浜出身のプロスケーター。2017年に47歳の若さでこの世を去った。
デカいストリートブランドに金落とすんだったら、自分たちで欲しいものを作ればいい

 今A-THUGが力を入れているのが、自身が手がけるウエアブランドのA-HIGHだ。実は10年ほど前から続いているブランドだが、ここ数ヵ月は次々と新作をリリースしその動きを活発化している。この変化もまたスケートの再開とリンクしているように見える。

A: 10年前から趣味でやってるブランドではあるんだけど、特に今は「いろんな人とクリエイトして、メイクしていこう」という感じでやっています。デカいストリートブランドに金を落とすんだったら、自分たちでボディを買って、自分たちが欲しいものを作ればいいんですよ。しっかり意識してやってたわけじゃないけど、スケーターっぽい考え方ですよね。今のA-HIGHには所属スケーターとしてヨシキがいて、ラッパーとしてオレがいて、デザインをグラフィティライターの山田丸氏にやってもらってます。

V: チームでやっているブランドなんですね。個人で動くのとチームで動くのとでは、どちらが自分らしいと思います?

A: もちろん個人技としてのスケートも大事にしてますけど、チームにはチームの良さがあるよね。それは何でも同じだと思いますよ。たとえばセンスのある人ってたくさんいるよね。ただ、そのセンスをどうやって形にするかとか、どうやって売るかまで、個人で思いつける人は少ないじゃないですか。でもチームでやれば、上手く行くこともある。オレはそうやって人に囲まれてスケートしたいし、クリエイトしたいし、ストリートを楽しみたい。ずっと“青春”をやりたいんだよ。オレが子供の頃にかっこいいと感じてたBlindチームも、本人たちからしたらただ青春してるだけだったんだと思う。

V: 大きな栄光を求めるのではなく、フッドに根を張って生きる地道な人間でありたい?

A: いや、そういうつもりも全然ない。確かに今のオレは川崎に住んでるし「シビックでも買っちゃおうかな」なんて思ってる。でもそれって単純に「今はそっちのほうが気楽でいいかな」ってマインドだからなんだよ。ベンツとかフェラーリに乗ってるナイジャみたいなスタイルもあり。オレだって「ロレックスを買ってもいいかな」って思う瞬間はあるし、とんでもない大金持ちになったら、どこか別の場所にあるタワーマンションに引っ越してもいいかなとも思ってる。オレは“欲”を否定してるわけではないんです。ただ女のケツとかベンツとかマネーとかパワーとか、そういうものを欲しがる気持ちって、人間をおかしくする魔物でもあるって思うんですよね。まあ、どんな状況でもオレは川崎出身であることは絶対に忘れないし、大金持ちになっても、タワマンに住んでも、川崎の角打ちには通い続ける(笑)。

V: 自分自身が楽しかったりかっこいいと感じることには、周りの評価に惑わされることなく素直に反応していく、と。

A: そこは柔軟にいきたいよね 。オレはお金にならなかったとしてもラップはやると思うし、スケートもやるし、ダンスもやると思う。もちろん生きていくためにはお金が必要ですよね。でも金は追いかけるものではなくて、やりたいことをやった結果としてついてくるものなのかもしれない…。スケートから話が逸れちゃいましたね(笑)。とにかくスケートっていうのはいろんなスタイルのヤツがいていいんだよ。もちろんモヒカンやドレッドのヤツもいるし、オタクスケーターだけでもいろんなスタイルのヤツがいる。中には警察官やヤクザだっていると思う。でも、そんなことはどうだっていい。とにかくスケートがクールだったらそれでOK。You know?

スケーターって動きが光ってるんですよ。ゴールドチェーン並みに

 少年時代のA-THUGは、それほど長い期間スケートに熱中していたわけではない。しかし小学校高学年から中学校の前半、わずか数年ほどの体験は、彼の人生に大きな影響を与えている。今、A-THUGは呆れるほどにスケートカルチャーを愛している。そして、あらためて影響を受けている。インタビューの締めくくりに、直球の質問を投げかけてみた。「スケートボードから、どんな影響を受けていますか?」

A: 「とりあえずメイクしないと、どうしようもない」ってこと。何かを一生懸命やれば、ある程度は上達しますよね。でも、どんなことだって上手くなるには結構な時間を使わなきゃいけない。だったら自分の好きなことで学んだ方がいいと思うんですよ。オレの場合はスケートで学びました。スケートって上手くなるまでに時間がかかるし、怪我をすることもある。それでもやり続けられるのは好きだからだよね。スケートとスノーボードをやるショーン・ホワイトって人がいるじゃないですか。彼は顔面から落ちて血だらけになっても技をメイクしに行く。そのハートがヤバいと思うんですよ。CrazyでBeautiful。You know?

V: 好きなことだったからこそ頑張れたし、努力して何かをメイクする経験もできた。

A: オレは小学校のときに学校で「お前はダメなヤツだ」って言われ続けてたんです。でもオレからしたら「なんかよくわかんねーな」って感じでしかなかった。だから無視してました。でもスケートはやりたいことだったから「とにかくメイクするしかない」って思って、すげぇ滑ってた。中学生になってからも部活には入らずに、マジでスケートボードばっかり。夜ご飯を家で食べなくなって、夜は先輩とスケートしてスナックなんかを食べてたから、おじいちゃんやおばあちゃんに心配されたりして…。でも、そういうことをしていたから、学校のルールで決められたことをやっていなくても生きていけることがわかった。まあ当時のオレは単純に「そっちのがクールだぜ」って思ってただけなんですけど(笑)。オレはスケートをやって、飽きてしまったりもして、伸び悩んでいる時期もあって、やめちゃったりして。その後、薬にハマって、やめて、金がなくなって、またスケートを始めてみたら、もう止まらない。今はとにかく上手くなりたいし、ストリートで楽しみたいと思ってる。最近ガイ・マリアーノのビデオを観て思ったんですけど、彼もそんな感じじゃないですか。もちろんオレなんかよりずっとスケートは上手いですけどね(笑) 。Hip-Hopもそうなんですけど、スケートって人生が詰まってると思いますよ。

V: 最後にファックアップしてるキッズにメッセージを。

A: とにかく好きなことを追求してほしいですね。何であってもいいと思う。そして自分が好きなものを裏切らないってこと。そのためには嘘をついたり誤魔化したりするのはダメ。入り口に関してはファッション感覚でもいい。でも、そこで止まってしまったら見えてこないものがある。スケートで言えば「このやろう」と思いながら、朝練をやったりするわけじゃん? で、メイクした時には超アガる。技をメイクしたら違う技にもトライしたくなる。いい流れにハマれる。でも、そうなるためには、まずはやり続けないと。どんなことだって何年か本気でやらなきゃ上手くならないからね。そして、そのくらいやったら、きっと一生忘れないはず…。まあ、今日はこの辺にして、スケートに行きましょうよ(笑)

 人は対象がどんなものであれ、真剣に向き合いさえすれば、必ず深い学びが得られる。A-THUGはラッパーであり、ハスラーでもある。その常人では決して経験することのないタフな経験から得た学びも大きいだろう。しかし彼のナレッジを遡れば、そのルーツにはスケートボードがある。事実A-THUGはたった数年間のスケートライフから、信じられないほど大きな影響を受けているように感じられる。そしてガイ・マリアーノと同じくドラッグに溺れ、トラブルに巻き込まれ、無一文に近い状態になったという彼の魂を救ったのは、おそらくスケートであり、スケートから得たナレッジであり、何よりもスケートに打ち込んだ過去の自分だった。今、A-THUGは自らの原点に回帰しているのかもしれない。インタビューを終え、スポットに向かう彼が口にした言葉が心に残っている。

 「最近スケーターがデッキを立てて、トラックに足をかけて交通標識に手を伸ばしてステッカーを貼っている写真を見つけたんですよ。すげえクールだなって。動きが光ってるんですよ。ゴールドチェーン並みに。オレはそういうかっこよさを探してるんです」
 

dubby bunny / Narcos feat. A-THUG & BES [Dir. by Naoto Abe] (P)2019 Kowloon Studios

 

A-THUG

神奈川県川崎市出身のラッパー。ニューヨークへ渡った後、bay4k、Seeda、BesらとHip-HopユニットのScarsを結成しリーダーを務める。近年はソロや別ユニットのDMFとしても活動を続けている。
@athug044g

 

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