交通事故に遭い、生存率14%という危機を乗り越えた大垣喜照。長い昏睡状態から目を覚ました彼を待っていたのは両脚を失ったという現実。それでも「スケボーだけは捨てたくなかった」とリハビリを経て再びデッキの上へ。死の淵から生還した“44マグナム”が、激動の1年半を振り返る。
──YOSHITERU OGAKI / 大垣喜照
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VHSMAG(以下V): まずは自己紹介からお願いします。
大垣喜照(以下Y): 大垣喜照です。ニックネーム的には「44マグナム」と呼ばれています。いつもは大阪の高槻の山にある「ハゲ場」っていう、みんなで作ったDIYのスケートパークで滑っています。スケート歴は6年くらいですね。
V: ちなみに、なぜ「44マグナム」と呼ばれているの?
Y: 結構、突っ込むんですよ。ピストルの弾みたいな感じで。「44マグナム」っていう拳銃があるんですけど、それでアダ名をつけてもらいました。
V: ここからは事故のことについて聞いていきたいんだけど、言える範囲で当日の流れを教えてもらえますか?
Y: 事故当日は買い出しでコーナンに行こうとしていたんですけど、その行き道で事故に遭いました。前後の記憶がちょっとぶっ飛んでいて、事故ったときに意識がなくて、一度心臓が止まってしまったんです。
V: それはプッシュ? それともバイクや車?
Y: 自分がバイクで、向こうが車で衝突したという感じです。そのまま病院に搬送されて、当時はもちろん覚えていないんですけど、記録を見るとだいたい1〜2週間くらいで意識を取り戻したみたいです。
V: 事故が起きたのはいつ頃ですか?
Y: 2025年の3月ですね。今から1年半くらい前です。
V: 自分の怪我の状態を把握したときのことは覚えていますか?
Y: 最初は幻肢痛という、足がないのに脳の作用で足があるような感覚があって、自分ではずっと足があると思っていたんです。でも、父から「足がない」と言われたときに初めて自分に足がないことに気づきました。
V: 意識が戻ったときにはすでに切断されていたんだね。Instagramでも書かれていたけど、生存率が14%だったとか?
Y: そうなんです。当時22歳だったんですけど、22歳の男性がその事故で生き残れる可能性が14%ってお医者さんに言われました。
V: 想像を絶するね…。お父さんから足のことを聞かされたときは正直どんな心境でしたか?
Y: お医者さんからも言われていたらしいんですけど、自分の中では全然覚えていなくて。自分から「オレ、足あるん?」って父に聞いたら「ない」と言われて。一瞬時が止まって「どういうこと?」ってなりました。足って普通はあるものじゃないですか。しばらく号泣しましたね。パニック状態というか。周りは慰めてくれましたけど、全然頭に入ってこなかったです。
V: そこからどんな感じで今のようなポジティブなマインドに切り替わったの?
Y: みんなが慰めてくれるんですけど、慰める方も辛いじゃないですか。みんな足がない状態がどういうものかわからないから、どう話しかけたらいいか困っちゃうと思うんです。それを考えて、自分が落ち込んでいたら周りもマイナスになるから「それってダサいな」と思って。それならオレがずっと前向きでいれば、みんなも前向きになれる。その方がいい関係になれると思って、ずっとポジティブでいます。ないものはないし、号泣もしたけど、戻ってくるわけじゃない。それなら、この足がない状態でできることをやった方が面白いやんってなりました。
V: スケートボードを辞めるという選択肢はなかったの?
Y: 最初は考えられる状態じゃなかったですけど、意識が戻ってきて「何がしたい?」って聞かれたときに、「退院したらスケボーしたい」とか「お酒飲みたい」とか言ってましたね。全身管だらけなのに「こいつ何言ってんねん」と思われたかもしれないですけど(笑)。ずっとスケボーをしてきたし、足がなくてもできるやろって。スケボーだけは捨てたくなかったです。
V: リハビリのプロセスは?
Y: 事故で頭も打っていたので、頭の体操や、足がない分、腕などの上肢を鍛えまくるリハビリが続きました。心臓が止まった影響で脳にも少しダメージがあったんですけど、今は普通に喋れるようになって良かったです。
V: リハビリで特に印象に残っていることは?
Y: ベンチプレスをめっちゃやりました。最初は20kgくらいしか上げられなかったんですけど、最終的にはマックス64kgまで上げられるようになって。「どこまで行けるんやろ」って逆に楽しんでいましたね。腕の力があれば絶対にスケボーに繋がるし、体幹も必要なので、「スケボーをするためにリハビリをする」という感じでした。
V: 仲間たちのサポートで忘れられないことはありますか?
Y: Woodsの(高澤)黎くんが「お前は足がなくてもWoodsのライダーやから戻ってこい」と言ってくれたのは感動したし、めっちゃうれしかったです。それでさらに火がつきました。
V: 事故後、初めてスケートボードに乗ったのは?
Y: まず集中治療室に2ヵ月、一般病棟に半年くらいいたんで、たぶん事故から8ヵ月後くらいですね。リハビリ病院に転院したときに、Hascoの(高澤)祐介くんがデッキを送ってくれて、病院で初めて滑りました。病院に許可をもらって滑ったんですけど、病院でスケボーしたのは僕が初めてじゃないですかね(笑)。
V: 久しぶりに乗った感覚はどうだった?
Y: 骨盤から下がない状態で、お尻の骨が板に当たってめちゃくちゃ痛かったんですよ。黎くんがヨガマットを貼ってくれたりしたんですけど、それでも痛くて。いろいろ調べていたら、オランダのVicairというクッションを見つけたんです。脊髄損傷の人が座ってもバランスが取れるような商品で。バリアフリー展で実際に試着してみたら、めちゃくちゃフィットして。責任者のマークという人に「これでスケボーがしたい」と伝えたら、動画を載せてくれるなら提供するよと言ってくれて、今はそのアンバサダーとして使わせてもらっています。このクッションのおかげで、痛みも軽減されてバランスも取りやすくなりました。画期的でしたね。
V: 以前と今ではスケートボードの乗り方もまったく違うと思うけど、やり直す作業についてはどう感じていたの?
Y: 元々のスキルや知識を繋ぎ合わせる感じです。「こうすればこう行けるな」というラインやアプローチの仕方は全然変わってくるんですけど、それを見つけるのもスケボーの醍醐味なので楽しいです。
V: 海外にはフェリペ・ヌネスのような、凄まじいレベルのスケーターもいるよね。
Y: 動画はチェックしています。最初、足がなくてもスケボーしてる人おるんかなと思って調べたら「え、X Gamesまで出てるやん、えぐっ」ってなって。実際に自分でやってみたら感覚が全然違くて「何これ」ってなりましたけど(笑)。でもやっぱり面白い。やるからには、彼らみたいなレベルまで行きたいです。
V: モデルとしてパリに行くという話も聞きました。
Y: 福祉関係の方に教えてもらって、ストーマのモデルのプロジェクトに応募したんです。面接を通って、東京かパリでの撮影があると言われたので「もちろんパリがいいです」と伝えて。10月6日のファッションショーで行かせてもらうことになりました。事故で失ったものも大きいですけど、得るものもあったなと実感しています。
V: Woodsの広島ツアーにも参加してたね。
Y: 事故後、初めてのでっかいイベントでした。1回目は行ったんですけど、2回目は事故で行けなくて。今年は黎くんが誘ってくれて行きました。みんなとお酒を飲むのが大好きなので、飲みすぎてキャンピングカーの横で吐きまくったりしましたけど(笑)。最高に楽しかったです。
V: 事故の前と後で、スケートボードへの向き合い方に変化はありましたか?
Y: 地面が近いのはいいんですけど、セクションが全部デカく感じますね(笑)。あとは、もしスケボーが飛んでいってしまったら取りに行くのが大変だし、手を怪我したら終わりだなっていう怖さはあります。でもスケーターだから楽しいことがしたいし、スケボーが好きだから辞める理由はないです。
V: 自身にとって、スケートボードとは何ですか?
Y: 「繋がり」ですね。知らない人同士でも、一緒にスケボーをしたら仲良くなれるし、めっちゃ楽しい。みんなとの繋がりです。
V: 今後、挑戦したいことはありますか?
Y: スケボーでもう1回海外、特にオーストラリアに行きたいです。事故のときも現地のみんなが心配して電話をくれたりして、すごく熱い人たちなんです。もう一度オーストラリアへ行ってみんなと滑るって決めています。
V: 最後に、同じような経験をしている人や読者に伝えたいことはありますか?
Y: 毎日何が起きるかわからないじゃないですか。僕もこんな事故が起きるなんて思わなかったし。当たり前のことかもしれないですけど、1日1日を大切に生きていったほうがいいなと、身をもって実感しました。本当に、いつ何があるかわからないですから。人生一度きりなので。
Yoshiteru Ogaki
@yoshiteru_44
大阪を拠点に活動する通称“44マグナム”。高槻の山中に仲間たちと作り上げたDIYスポット「ハゲ場」をホームにWoodsのライダーとして活動。2025年3月の交通事故で両脚を失うも、長期入院とリハビリを経て復帰。現在は自身の身体に合わせた新たなスタイルでスケートを続けている。
















