Nike SB dojo | スケートパーク

出会いから20年
──スケートマガジン・コペルニクス

2019.06.24

 スケーター荒木 塁と初めて会ったのは、神戸の山の手のストリート。と言いたいところだが、実際は東京の本郷にあったWHEELマガジン編集部だった。それも、深夜2時頃だったと思う。当時まだ20代前半で、今よりもさらにエッジが効いていた出入りのライターKEくんが連れてきた。
 「漫画みたいな編集部」と彼はよく言っていたのだが、そのときも荒木 塁に向かって「ここの人は超Mなんだよ。徹夜になればなるほど燃えてくるというか調子出るというか」。そんなことを言っていた気がする。たしかに漫画みたいな場所で、編集長だった僕のデスク後方の本棚には専門誌の編集部らしいスケビ(当時はビデオテープ)や海外のスケート誌、参考資料などは皆無。すべて漫画というラインナップだった。それも深夜の、そう、ちょうど彼らが来訪したような時間帯に、部下であったHくんに「テキトウに美味しいパンと良さげな漫画を買ってきて」と言って、小遣いを渡しながら依頼したものばかりがズラリと並んでいた。
 なぜそんなことをしていたかというと、漫画コレクターでもなく、部下に対する嫌がらせでもなく、撮影、撮影、デスク、デスクとつねに追い込まれている少人数編集部の、いつのまにか凝り固まってしまったフォーマットをぶっ壊すための清涼剤だった。それを合図にしばらく休憩に入るのだ。
 そんなときにだいたいKEくんはやってきて、フィルミングした帰りか、スケーターとの親睦会('90sの親睦会といったらさ)の合間なのか、とにかく僕らと無駄話をしていく。そして、その日一緒にいたスケーターは巻き添えを食うかたちで、この漫画みたいな編集部に寄り道をすることになる。
 しかし、彼の本当の目的を僕は知っていた。深夜になるまでには上がってきている自分の担当ページのレイアウトや写真の仕上がりをいち早くチェックしたいのだ。そして、他のページのレイアウトも見ながら、もっとブラッシュアップできるかの時間的余地を見定めたいのだ。ふざけたところやエッジが効き過ぎなところが目立っていた彼は、ページネーションに並々ならぬツメの激しさがあった。当時の漫画みたいな編集部で漫画みたいにふざけた生活をしていた僕でも、それは感度良好、実に感じ入っていたところだ。
 とにかく、その日、そのとき、深夜、荒木 塁と初めて会って握手を交わすのだけれど、当時、Zoo Yorkとか、そういうストリート臭を滑りだけでなく身体全体からプンプンと漂わせていたスケーターの彼が、その後滑り続けていく道程で、まさかネガフィルムに魅せられ写真撮影の虜になるとは思ってもみなかった。スケートそのものと同じくらい写真のことも好きになってしまうとは。
 荒木 塁はどこまでも、かっこよく投影される被写体側だと思っていた。それが1999年のこと。「2000年問題どうすんのや?」とみんなが騒いでいたとき。そして、2019年。「東京オリンピックどうなるんだ?」とザワメキまくる今。KEくんはVHSMAGで制作に携わり、僕はWHEELからSbへとスケートマガジンを続け、SLIDERではKEくんとまた企画会議なんぞをしている。荒木 塁はというと、スケーターとして相変わらず自分流を貫き通しながらストリートに出没し続け、フォトグラファーとしてフィルムを己で焼いて額装している。そして、スケートと同じくらい写真の威力を信じているSb誌上で、スケートと同じくらい愛して止まない写真でヘッドライナーを担当している。
 現在発売中のSb Skateboard JournalのVol. 33では、ニューヨークの写真家アリ・マルコポロスと肩を並べて、荒木 塁のスケートではなく“写真たち”がページを飾っている。おまけに表紙も飾っている。それがまたとても良い。その昔に編集部で交わした握手から20年、いろいろがあって、素敵なリレーションシップが花を咲かせている。
 ディスが多い現代で、たまにある「そういわれると、そういうのも悪くないよね」っていう話。ひょうたんからコマとはよく言ったもので、漫画のような編集部からキープオンプッシングしてきて良かった。どんどんソリッドになっていくSb最新刊と荒木 塁のヘッドラインをどうぞよろしくお願いします。

--Senichiro Ozawa

 




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